1.安息日の癒し
・イエスは安息日に十八年間腰が曲がった女を憐れみ、癒したが、会堂長はイエスを批判した。
-ルカ13:10-14「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人を癒されたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」
・安息日の癒しを批判した会堂長にイエスは言われた。「あなた方は安息日に牛や驢馬を引いて水を飲ませに行く。良い業であれば安息日に行うことは許されているのではないか」。彼らは言葉に詰まった。
-ルカ13:15-16「主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛や驢馬を飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」
・イエスは語られる「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:3-4)。イエスは形式的な律法の順守にこだわって、隣人の救済を否定する人々を批判されている。カール・バルトは安息日を巡る問題を「祝いと自由と喜びの日」とする。日曜日を「礼拝を守らなければいけない日」と考えた時、それは私たちを縛る日になるが、日曜日を「礼拝に参加することが出来る日」に変えることが出来れば、人生は豊かになる。
2.「からし種」と「パン種」の譬え
・イエスは神の国の成長をからし種の成長に譬えた。からし種は植物の種の中では極小であるが、成長すれば数メートルの大きさになり、小鳥が巣を作り、その黒い実を好んで啄む。
-ルカ13:18-19「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何に例えようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』」
・次にパン種の譬えを語られる。パン酵母は小麦粉に練りこまれ、発酵してパンを大きく柔らかく膨らます。1サトンは12.8リッター、3サトンでは150人分のパンになる。神の国の現実もそれと同じで、今はごくわずかな存在であるが、やがて人が驚くような大きな現実になると預言される。
-ルカ13:20-21「また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」
・良い地に落ちた福音の種は30倍、60倍、100倍にも成長し得る。だから失望せず蒔き続けるのだ。
-マルコ4:8 「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
3.狭い戸口から入りなさい
・エルサレムへ向かうイエスに、会衆の一人が「救われる者は少ないのでしょうか」と質問した。矢内原忠雄はこの人物は「ファリサイ人であり、心の中で、救われる者が少ないのは、モ-セの律法を守っているファリサイ派の我々だけだからである」と自負していたのではないかと推測している。
-ルカ13:22-23a「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた」。
・イエスは「狭い戸口から入りなさい」と質問者の意表を突く答えをされた。
-ルカ13:23b-25「イエスは一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。』。
・並行のマタイ7:13-14では狭い門となっている。神の国に至る道は狭き門、細い道なのだ。
-マタイ7:13-14「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。かし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
・家の主人とねんごろであっても、そのよしみで頼んでも、情は通じない。
-ルカ13:26-27「そのとき、あなたがたは『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、私たちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆私から立ち去れ』と言うだろう。」
・イエスは救われる者は少ないことを、狭い戸口のたとえで語られ、「ユダヤ人は選民だから自分たちは必ず神の国へ入れるなどと自惚れるな」と戒められた。
―ルカ13:28-30「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
・「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という問いは、救いを第三者的に見ている。それに対してイエスは「救いを自分の問題として考えなさい」と言われた。キリスト教神学の流れの中では、「万人救済説」と「排他主義」の双方の流れがある。「万人救済説」とはキリスト教信仰の有る無しに関わらず、全人類が救われるとの思想である。正統派神学はアウグスティヌスらが唱えた「排他主義」(信者のみが救われる)を採る。私たちはどちらが正しいか知らないが、それを議論するのは「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と同じく愚かな問いである。神の秘儀に属する「救い」を論争しても無意味であろう。
4.イエスとヘロデ
・エルサレムへ向かっていたイエスが、ヘロデ・アンティパスの領内を通過中、数人のファリサイ人が現れ、ヘロデがあなたの命を狙っているから、早くこの地を離れた方が良いと勧めた。
-ルカ13:31「ちょうどその時、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』」
・イエスはヨルダン川東岸のペレア地方を通ってエルサレムを目指しておられた。ペレアはガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスの領土で、ヘロデは洗礼者ヨハネを逮捕し、処刑している。今、ヨハネの第一弟子イエスをも捕らえて殺そうとしているとの情報がファリサイ派の人々に入り、この警告となったのであろう。福音書(特にマタイ)はファリサイ派の人々を激しく批判するが、それは福音書が書かれた当時のユダヤ教団に対する批判であり、イエスご自身はしばしばファリサイ派の人々と会食しており、すべてのファリサイ派がイエスの敵だったわけではない。現にパウロもファリサイ派だった。
・ヘロデはローマから任命された領主だった。ローマの意向次第では、その地位は吹き飛ぶ。だから彼は権力者ローマに取り入るために、自分を偽る狡猾な領主だ。イエスはヘロデを「あの狐」と呼ばれた。
-ルカ13:32「イエスは言われた。『行って、あの狐に、今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終えると私が言ったと伝えなさい。』」
- エルサレムのために嘆く
・イエスはエルサレムでの死を覚悟しておられる。「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」という言葉がその決意を示す。そのイエスにとってヘロデの脅しは何の意味もない。
-ルカ13:33-34「だが、私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鶏がひなを羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。』」
・イエスはイスラエルの滅びを宣言された。この言葉は、イスラエル滅亡を知るルカの言葉かもしれない。
-ルカ13:35「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない。」
・ユダヤ人はローマ支配から脱却するため紀元66年に反乱を起こし、完膚なきまでに撃たれ、エルサレムは廃墟となり、国は滅んだ。地上の国を求めて神の国を拒絶した結果、エルサレムは自滅したとルカは考えている。ルカは紀元70年のエルサレム滅亡を知っている。この時からユダヤ人は国を持たない流浪の民になった。その後、ユダヤ教徒はキリスト者を会堂の集まりから追放した。キリスト者は社会から村八分にされ、迫害された。迫害の中で信仰を守り抜く道は、狭い道、狭い門なのである。