1.洗礼者ヨハネのバプテスマ運動
・洗礼者ヨハネが宣教を始めた時のロ-マ皇帝はティベリウスであった。ティベリウスは初代アウグストゥス帝の養子で、紀元14年 に帝位についた。その即位15年、紀元29年頃にヨハネは宣教活動を始めた。その時、ユダ総督はピラト、領主はヘロデ、フィリポ、リサニアらであった。大祭司はアンナスとその娘婿カイァファの二人だった。
-ルカ3:1-3「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイァファとが大祭司であった時、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」
・「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」、マラキにより最後の預言がなされてから400年の時が経っていた。当時のユダヤはローマ支配下に置かれ、人々はユダヤを解放するメシアを待ち望んでおり、その前兆として預言者が遣わされると期待していた。だから洗礼者ヨハネがユダヤの荒野に突如として現れた時、人々は、「再び預言者が現れた」と熱狂した。
-マラキ3:1「見よ、私は使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」。
・洗礼者ヨハネは人々に、「悔い改めのバプテスマ」を呼び掛けた。
-ルカ3:3-6「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてある通りである。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
・自分たちはアブラハムの子孫、選民だと慢心していたユダヤ人に、ヨハネは「蝮の子らよ」と呼びかける。ヨハネは彼等を厳しく叱責し、「斧はすでに木の根元に置かれている」と彼らを戒めた。
-ルカ3:7-9「ヨハネは、バプテスマ(洗礼)を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。『蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免かれると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子らを造りだすことがお出来になる。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』」
・ヨハネの説教を聞いた人々は、心を打たれ、「どうすればよいのですか」とヨハネに質問した。ヨハネは「悔い改めを行いで示せ」と指導した。
-ルカ3:10-14「そこで群衆は、『では私たちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』と答えた。徴税人もバプテスマを受けるために来て、『先生、私たちはどうすればよいのですか』と言った。ヨハネは規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、『この私たちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『だれからも金をゆすり取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言った。」
・貧しさと腐敗に悩む民衆は、ヨハネがメシアではと期待したが、ヨハネは自分はメシアではなく、後から来る方が真のメシアだと応じ、メシアは「霊と火」のバプテスマを授けると教えた。
-ルカ3:15-16「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではなかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向って言った。『私は水でバプテスマ(洗礼)を授けるが、私よりも優れた方が来られる。私は、その方の靴のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊も火であなたたちにバプテスマ(洗礼)をお授けになる。』」
・ヨハネは、麦殻と麦を選り分ける隠喩を用いて、民に神の裁きを説いた。農夫が箕に収穫物を入れてあおると、軽い麦殻は吹き飛び、重い麦は箕に残る。神は裁きの箕を持った農夫のように、両者を振るい分け、悔い改めた者を神の倉に入れ、悔い改めない者は麦殻を焼き払う如く罰するとヨハネは語った。
-ルカ3:17「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
・ヨハネは徴税人や兵士に向かって、その仕事を辞めることを要求しなかった。「悔い改めにふさわしい実」として必要なことは、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方を生きることだと彼は教えた。生活の中で、悔い改めにふさわしい生き方をすることこそが本当の礼拝だとルカ福音書は語る。シュラッターは注解する「本当の悔い改めは、あり余っている人の隣に、必要なものを欠く人がいた時に、今まで何も苦にしなかった人たちが、与えることの出来る人たちに変えられることである」。
2.イエス、ヨハネからバプテスマを受ける
・ヨハネは預言者の権威により民衆にバプテスマ(洗礼)を施した。イエスがヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けたのは、ヨハネの預言者としての権威を認め、従ったからである。
-ルカ3:21-22「民衆が皆バプテスマ(洗礼)を受け、イエスもバプテスマ(洗礼)を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が天から聞こえて来た。」
・ルカは、イエスが洗礼を受けられた時、「聖霊がイエスの上に降った」と記す。イエスの働きは聖霊、神の霊を受けることから始まった。私たちが悔改めて水の洗礼を受けることが救いの初めであり、その後の歩みの中で聖霊の洗礼を受けて、救いが完成すると福音書は伝える。私たちは自分の罪を認め、先ず水に入り、信仰の歩みの中で、旧い自分が火によって焼き尽くされ、聖霊に満たされて新しくされる時を迎える。これが火と聖霊による洗礼であり、その時、私たちは新しく生まれ変わる。
・またルカは記す「あなたは私の愛する子、私の心に適う者という声が、天から聞こえた」と。この天からの声をイエスが聞かれたということは、イエスが神の子として召命されたことを示す。「あなたは私の愛する子」、父なる神が、ご自分とイエスとの間に父と子という深い愛の関係があることを明らかにして、イエスがこれから歩もうとしている道を支えて下さるとの宣告だ。イエスはこのバプテスマを通して、神の子としての使命が自分に与えられていることを自覚された。
・福音書には二つのイエスの系図がある。ルカ三章とマタイ一章の二つだ。両者には幾つかの相違があり、ユダヤ人マタイの系図はユダヤ人の祖先アブラハムまで遡り、イエスがユダヤ人であられたことを示す。他方異邦人ルカは全人類の祖先アダムまで遡っている。ルカは民族、種族の垣を取り払い、イエス・キリストは全人類の救い主であられることを伝えている。
3.ヨハネとイエス
・イエスはバプテスマを受けられた後も、ヨハネの弟子として荒野におられた。しかし、ヨハネがガリラヤ領主ヘロデに捕えられ、要塞に幽閉された時を機に、ヨハネ共同体から独立して宣教を始められた。
-マルコ1:14-15「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔改めて福音を信ぜよ』」。
・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届く。「良い行いをしない者は集められて火に燃やされる」というのがヨハネの考える審判で、メシアはその裁き主だった。しかし、聞こえてくるイエスの行為は罪人の「裁き」ではなく、罪人の「赦し」だった。不信を持って問いかけるヨハネにイエスは答えられる
-ルカ7:22-23「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである」。
・ヨハネは預言者だった。預言者は人々の罪を告発し、悔改めを促し、神に相応しく生きることを求める。しかし、このような道徳的行為では人は救われない。何故ならば、人間の罪は、自己を救うにはあまりにも重い。イエスが洗礼を受けられた時、「私の心に適う者」との声が天からあったとルカは記す。イザヤ42章からの引用であり、そこには柔和なメシアが預言されている。
-イザヤ42:1-3「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。
・イエスの示されたメシアは「柔和な裁き主」だ。彼は「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」、力で人々を支配し裁くという方法ではなく、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」、裁かれる。傷ついている者、弱っている者が、この裁きにおいて断罪され、滅ぼされてしまうのではなく、むしろ赦され、救われていく。どうしてそのような裁きが可能なのか。初代教会は、イエスが罪人のために身代わりとして死ぬことによって罪の赦しを人々にもたらしたと理解した。
-イザヤ53:5「彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された」。