1.天に宝を積め
・イエスは「地上ではなく、天に宝を積め」と言われた。高価な衣類や貴金属を地上の蔵にしまっておくと、虫がつき、錆び、盗人に奪われる。他方、天に積んだ富には虫もつかず、錆びず、盗まれない。
-マタイ6:19-21「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、盗人が盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
・「あなたの富のある所にあなたの心もある」とイエスは言われる。確かにそうだ。
-マタイ6:24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。
・ルカ福音書「愚かな金持ちの喩え」は、地に宝を積む愚かさを教える。
-ルカ12:16-21「イエスは喩えを話された。『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしょう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがて言った。「こうしよう。蔵を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう言ってやるのだ。さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめと。」しかし、神は「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれの物になるのか。」と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊にならない者はこのようになるのだ。』」
・「愚かな金持ちの喩え」のギリシャ語原文では短い話の中に、私(ムー)と言う言葉が4回も出てくる。私の作物、私の倉、私の財産、私の魂、彼の関心は私だけだ。しかし、命が終る時、私の倉も、私の穀物も、私の財産も、私の魂も終る。イエスは言われる「愚かな金持ちよ、何が一番大切なものか、知らなかったのか」。ルカは「天に宝を積むとは、持ち物を売って人に施すことだ」と理解している。
-ルカ12:33-34「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。
2.体のともし火は目
・目は光が体に入る窓であり、心の窓でもある。目が曇っていたり、汚れていたりすると全身が暗くなる。
-マタイ6:22-23「からだのともし火は目である。目が澄んでいれば全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中の光が消えれば、その暗さはどれほどであろうか。」
・ルカは「見よ、ソロモンに勝る者がここにいる」とのイエスの宣言の後に目の喩えを置く。「イエスがどなたであるか目を凝らして見よ」と語っている。マタイは前提なしで目の喩えを語り、ルカでは「イエスを見よ」との前提で目の喩えが語られている。編集により意味が変わってくる。
-ルカ11:31-34「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た。ここに、ソロモンにまさる者がある・・・ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた。ここに、ヨナにまさる者がある。ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」。
3.思い悩むな
・イエスは弟子たちに言われた「何を食べようか何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。イエスと弟子たちは職業も財産も家も捨て、町から町へ、村から村へ、放浪の宣教活動をした。寝る場所がなく、食べることの出来ない日もあった。その現実の中でイエスは「何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな」と語られる。
-マタイ6:25「だから、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。
・「空の鳥を見よ」とイエスは言われる。空の鳥は種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないのに生かされているではないかと。
-マタイ6:25「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」。
・ルカの並行記事では、「鳥ではなく烏」とされている。ユダヤでは烏は汚れた鳥とされていた。荒野で餌をあさりつつ、たくましく生きる烏の姿に、イエスは自分たち一行の放浪生活を見られたのかもしれない。
-ルカ12:24「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。
・弟子たちは生産活動をせずにイエスに従った。しかし彼らは神により養われ、生かされた。だからイエスは言われる「命は食物以上であり、身体は着物以上ではないか」、そして「その命は神の支配下にあるのだ」と。
-マタイ6:27「イエスは言われる『あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか』」。
・イエスは重ねて言われる「野の花は働きもせず、紡ぎもしないのに見事に咲いているではないか」。働く、紡ぐ、ここでは女性の労働が暗示されている。イエスの跡に従う婦人たちへの言葉であったろうか。
-マタイ6:28-30「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていまかった。今日は生えていて明日炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」
4.委ねて生きる
・イエスは「神を信じて、明日のことを心配せず、今日を精一杯生きなさい。その日の思い悩みはその日だけにしなさい」と言われた。何故ならば、「天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じ」だからである。
-マタイ6:31-33「『だから何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
・「養って下さる神の存在を信じる」時に、人は思いわずらいから解放される。イエスは神の創られた世界をよく見よとして、野の鳥や野の花の例を示されている。彼らは神に生かされるままに生きている。「あなたたちも神に自らの生を委ねて生きればよいではないか」とイエスは言われる。
-マタイ6:34「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
・私は50歳の時、勤務先を辞めて、牧師になるために神学大学に入った。神学を学びながらいつも不安だった。「当面の生活費は退職金により支えられているが、それがなくなったらどうすればよいのか。家族を養えるのか」。大学卒業後、神は教会の牧師としての働きの場を与えて下さった。それでも心配だった。当時の教会の経常献金は300万円を下回り、生活を維持するだけの牧師給は出なかった。しかし神は神学校の仕事を副職として与えて下さった。それから20年が経った。「生かされてきた」としみじみ思う。人の心配ごとの90%は実際には起こらない。可能性のほとんどないことを思い悩んで時間とエネルギーを費やし、自らを不幸にしている。それより、「明日のための心配から解放されて、神に信頼して、今ここに生かされていることを喜びなさい」とイエスは言われている。
-ルカ12:32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。