1.安息日論争
・ファリサイ人は、イエスの病気の癒しの数々を見て、次第に苛立ち、イエスを目の敵にするようになっていった。ある安息日に、麦の穂を摘んで食べるイエスの弟子たちを見たファリサイ人は攻撃した。麦の穂を摘んで食べる行為は申命記により許されていたが、安息日にしてはいけなかった。安息日に禁止されていた「労働」に該当したからである。
-マタイ12:1-2「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ人はこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った」。
・安息日は、元来はイスラエルの農耕生活における休息日として設けられた。「6日間働いて7日目には休みなさい」という、祝福としての安息日であったが、規定が十戒に取り入れられると、次第に「守らなければいけない」規定となり、やがて「安息日を犯す者は殺されなければならない」という厳格規定に変わっていく。イエス時代の律法学者たちはこれを受けて、「安息日には仕事を一切してはいけない、麦の穂を摘むことも刈入れに当たるから禁止されている」と考えた。しかしイエスは反論される。
-マタイ12:3-8「イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者も空腹だった時に何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『私が求めるのは憐れみであって、生け贄ではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
・「人の子は安息日の主なのである」、マルコでは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)とイエスは言われた。ある時、イエスが会堂に入ると、そこに片手の萎えた男がいた。その日は安息日で、ファリサイ派の人々はイエスが安息日に癒しを行うかどうかを注視していた。彼らは「安息日に人を癒しても差し支えないか」とイエスに質問した。
-マタイ12:9-10「イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか』と尋ねた。」
・イエスは彼らの問いに、直接には答えず、「安息日に善いことをするのが正しいなら、善いことしないのは誤りである」と指摘された。聖なる日であろうとも、困っている人を救わないことはありえないと。
-マタイ12:11-13「イエスは言われた。『あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊より大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。』そしてその人に『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元通り良くなった」。
・イエスは安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子たちを批判するファリサイ人に対して、「安息日は、人のために定められた」と答えられ、安息日の癒しを非難する人々に対しては「安息日に律法で許されているのは善を行うことではないのか」と問いかけられた。イエスを動かしているのは神への愛と隣人への愛である。神は人の休息のために安息日を設けて下さった、それを人は勝手に細かい規定を作り、煩雑にして、束縛の規則に変えてしまった。それは神の御心に反するのではないかとイエスは問われた。
2.神が選んだ僕
・「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(12:14)。しかし、イエスは癒しを続けられた。マタイはそのイエスの行為を、イザヤ42章「僕の歌」を通して、描いている。
-マタイ12:15-21「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、私の選んだ僕。私の心に適った、愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた芦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。』」
・当時の人々は、重い病気や障害は神の呪いから来ると考えていた。病人たちは叫ぶ「何故、神はこのような冷たい仕打ちを許されるのか」。彼らは神の愛を疑い始め、信仰の火は消えようとしていた。まさに、「傷ついた葦であり、くすぶる灯心」だった。その彼らの病を癒し、障害を取り去ることこそが、彼らを救う神の憐れみだとイエスは理解された。マザー・テレサは路傍で死ぬ人々を「死を待つ人の家」に運び込み、最後の看取りをした。彼女は語る。
-マザー・テレサ「愛の贈り物」から「私は彼女の病気を救いたいのではありません。彼女が最後を迎える時に“自分は愛された。大切にされた”という思いで天国に帰ってもらいたいのです」。
3.悪霊論争
・悪霊のために目が見えず、口の利けない人が連れられて来られた。イエスはその人を見て憐れみ、悪霊を追い出され、口の利けない人が話し始めた。人々は驚嘆し、「この人はダビデの子、メシアではないだろうか」と言い始める。ファリサイ人たちは「彼は魔術を用いて悪霊を追い出している」と非難した。
-マタイ12:22-24「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスが癒されると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか。』と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。』と言った。
・イエスは反論された「サタンがサタンを追い出せば、内輪もめだ。私は神の力でサタンを追い出している。もし、神の力がサタンを追い出しているのであれば、神の国は既にあなたたちのところに来ている」。
-マタイ12:25-27「イエスは彼らの考えを見抜いて言われた。『どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えばその国は成り立たない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、その国が成り立って行くだろうか。私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから彼ら自身があなたたちを裁く者となる。』」
・神の国は死んでから行く天国ではなく、「今ここで始まっている」とイエスは言われた。病気や障害の人が癒される、その癒しを通じて、人々が神の呪いの下にあるのではなく、神の祝福の下にあることが明らかにされる。「その神の業を何故素直に喜べないのか」とイエスは反論され、言われる「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない」。「あなたたちが私の悪口を言うのはかまわない。しかし、神が為されている救いの業を否定することは許されない。神は今サタンと戦っておられる。あなたたちは神の救いを否定しているのだ」とイエスは言われた。
-マタイ12:28-32「『しかし、私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、強い人を縛りあげなければ、どうして、その家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってからその家を略奪するものだ・・・人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも許されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。』」
・生命科学者の柳澤桂子さんは「病や障害をもつ人への偏見」について語る。
-2005年2月8日朝日新聞コラムから「遺伝子に突然異変はつきものである。一見正常な私たちも十個前後の重い病気の遺伝子を持っている。それがたまたま正常な遺伝子にマスクされているので、発現しないだけである。人類という集団のなかには、かならずある頻度で、障害や病気を持った子供が生まれてくる。ヒトの遺伝子集団のなかに入っている病気の遺伝子を誰が受け取るかわからない。それを受け取ったのがたまたま自分でなかったことに感謝し、病気の遺伝子を受け取った人にはできるだけのことをするのが、健常者の義務であろう」。
・柳澤さんは原因不明の病のため、30年間も寝たきりの闘病生活を送り、自身が差別に苦しんだ。彼女の言葉は、マタイ12章を考える上で重要だ。「生まれても苦しむだけの重い病気を背負う子供は生まれない方が幸せだ」とする現代人の考え方は、「障害や病気を持った人は、神に呪われた罪人だ」と弾劾するファリサイ人と同じではないか。イエスは癒しの業を通して言われる「神は苦しむ人に無関心ではない。神は、病気や障害を持つ人を見て、これを憐れまれる方だ。だから神は私に病を癒す力を与えられた」と。
・そのイエスの業を私たちは継承していく。私たちにはイエスのような病の癒しは出来ないが、差別され、排除された人を、隣人として迎えることは出来るし、そのことが「束縛からの解放」をもたらす。教会の中に、「困っている人たちのために為すべきことをしたい」人々がいる。それが神の国であり、「神の国が既に来ている」ことを証しするのが、私たちの伝道であろう。