江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年6月23日祈祷会(マタイによる福音書13:1-23、種蒔きの喩え)

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1.「種を蒔く人」の喩え

 

・マタイ13章にはイエスの語られた譬えが編集して掲載されている。最初の三つの譬え、「種を蒔く人の譬え」(13:1-9)、「譬えを用いて語る理由」(13:10-17)、「種蒔きの譬えの解釈」(13:18-23)の原型はマルコ4:1-20にあるが、マタイはそれを編集して、喩えを「教会の出来事」として語っている。

-マタイ13:1-3「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスは喩えを用いて多くのことを語られた」。

・最初の喩えが「種まきの譬え」である。

-マタイ13:4-9「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけの土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のあるものは聞きなさい。」

・イエスが語られた譬えでは、最初の種は種のままに終わり、第二の種は芽を出しても成長せず、第三の種は育つが実をつけずに終わる。無駄になる種もあるが、農夫は気にしない。種を蒔く人は長年の経験から蒔いた種に多少の損失があっても、良い種は芽を出し、成長し、豊かに実をつけることを知っている。だから、失われていく種があっても失望せず、豊かな収穫を予期しながら、希望に満ちて種を蒔くとイエスは語られている。

・神の国も同じだとイエスは言われている。イエスは「神の国は来た」と宣教を始められたが、イエスに従ったのは僅かな人々で、当初イエスに従った人々も、やがて離れて行った。しかしイエスは希望を捨てない。多くの種が無駄になっても、12人の弟子たちはそばに残り、この残った種が豊かな実りをもたらすことを信じておられたからだ。イエスの種蒔きの譬えの中心は無駄になった種の嘆きではなく、確実にやってくる収穫の喜びである。イエスはその収穫の喜びを信じて、種(御国の福音)を蒔き続けられた。

・原文のギリシャ語では、最初の種、二回目の種、三回目の種は「単数形」で記され、最後の種は複数形で書かれている。無駄になる種はあっても多くは「豊かな実り」をもたらすことが記されている。日本語では表現できないが、英語ではそのことが確認できる。

-マタイ13:4-8(TEV)「As he scattered the seed in the field, some of it fell along the path. Some of it fell on rocky ground. Some of the seed fell among thorn bushes. But some seeds fell in goodsoil, and the plants bore grain: some had one hundred grains, others sixty, and others thirty」

 

2.「種を蒔く人」の譬えの説明

 

・この譬えは何を意味するのか、18節から譬えの解釈が始まる。ここにあるのはイエスの言葉ではなく、マタイの教会が聞いた譬えであろう(御国の言葉、「ホ・ロゴス」は初代教会特有の言葉である)。

-マタイ13:18-23「だから種を蒔く人の譬えを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけのところに蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉は聞くが、世の思い煩いや冨の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

・「御言葉を聞いても悟らない」、福音を聞くが受けいれようとしない多くの人々がいたというマタイ教会の現実が表明されている。それが「道端に蒔かれた種」であろう。石地に蒔かれた種では、受け入れても長続きしない信仰生活が見つめられている。マタイの教会は同胞ユダヤ人社会からの迫害の中にあり、信仰から離れる人々が後を絶たなかった現実が語られている。茨の中に蒔かれた種とは、この世の思い煩いや富の誘惑が信仰の成長を阻むという現実がマタイの教会にもあったことを反映している。

・しかし少数であれ、福音の種を受け入れ、イエスに従っていく人たちが必ず存在する。「良い土地に蒔かれたものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」。マタイは希望を失っていない。しかしイエスに比べると悲観的だ。イエスは無駄になった種を気にしていない。良い種はそれを補って余りある豊かな実りをもたらすからだ。他方、マタイは「あの種はサタンが食べてしまった、あの種は枯れてしまった、もう一つの種は実りをもたらさなかった」と、失われた種の行方を追いかけている。マタイには伝道がうまくいかないという思い悩みがある。「御言葉が蒔かれる」、「御言葉につまずく」、「御言葉のために迫害が起こる」、当時の教会は一生懸命に伝道したが、実りの少なかった厳しさが反映されている。しかし、その中で、「御言葉を聞いて受け入れる人が必ず出てくるから、たゆまず伝道しなさい」とのイエスの言葉が、彼らの希望だった。初代教会はイエスの譬えを「伝道の困難」という思い悩みの中に聞いた。

 

3.喩えを用いて話す理由

 

・13:10-18は種まきの譬えの解釈をめぐる記述である。弟子たちは、イエスが何故種まきの譬えを話されたのかを思いあぐねていた。

-マタイ13:10-13「弟子たちはイエスに近寄って、『なぜ、あの人たちには譬えを用いてお話しになるのですか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らには譬えを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。』」

・イエスは「神の国が来た」と宣教され、多くの人々がその言葉を聞いた。福音の種が蒔かれた。それにもかかわらず、イエスは十字架で殺され、イエスの宣教は挫折した。福音の種は、道端に落ち、岩地に落ち、茨の中に落ちて、芽を出さないか、すぐに枯れてしまった。イエスが十字架にかかられた時、弟子たちもイエスを見捨てて逃げ出した。「この人はメシアではなかった」、弟子たちは失望し、イエスの伝道は失敗した。

・その弟子たちにイエスは言われた「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(13:14)。弟子たちはイエスの十字架刑に動揺し、いなくなった。道端や石地や茨の地に落ちた種のようだ。御言葉を聞いても種は根付かないし、芽を出さない。弟子たちが本当にイエスに従う者になったのは、イエスの復活後だ。イエスの十字架刑の時に逃げ出した弟子たちが、復活のイエスに出会って戻って来て、今度はイエスのために死ぬ者に変えられていった。

・イエスの復活を通して、弟子たちの心に蒔かれ続けていた福音の種が芽を出した。その時、弟子たちは「無駄になる種はあっても最後には御言葉は豊かな実を結ぶ」ことがわかった。「私たちは、御言葉のために困難や迫害が起きて、つまずきました。私たちは、世の心遣いや富の惑わしの中で、御言葉を聞いても、実を結べませんでした。しかし、復活のイエスに出会い、私たちのような者でも赦されていることを知りました。もう、迷いません」。弟子たちは、イエスのために死ぬことさえいとわない者に変えられていく。

 

4.譬えの意味するもの

 

・このように見てくると、道端、石地、茨の地、良い地の区別は信仰の発展段階を示すのではないかと思われる。最初は御言葉を語られても、見向きもしなかった。次に、自分が悩みを持ち、御言葉によって救われるかもしれないと思い、すがった。しかし、教会に来ても病気は治らない、失望して教会を去る人は石地の段階かも知れない。さらに、イエスの言葉を聞き、感激してバプテスマを受けても、会社や家庭生活が忙しくなると、次第に教会から離れていく。それが茨の地の段階だ。自分もかつては、道端であり、石地であり、茨の地であった。しかし、そのような者がまた教会に戻され、今ここにいる。固い土地も耕されれば良い地になり、石地も石が取り除かれれば豊かな地に変わり、茨の地も除去を繰り返せば農地として豊かな実を結ぶようになった。

・イエスは無駄になる種があっても気にされなかった。良い種は芽を出し、成長し、豊かに実をつけることを知っておられたからだ。だから、失われていく種があっても平気であり、むしろ豊かな収穫を予期しながら、希望に満ちて種を蒔かれた。このイエスの楽観論を私たちも共有したい。一度教会に来られても二度目は来られない人もいるし、何度か来られてもやがて姿が見えなくなる方もおられる。バプテスマを受け、共に礼拝を守った方が、教会から遠ざかる場合もある。しかし、私たちは、福音の種は力を持ち、豊かな収穫をもたらすことを信じている。神は私たちの小さな群れに、この地に信仰共同体を建設することも許された。維持のために教会堂も与えられた。初代の弟子たちが困難の中でイエスに従って行った素晴らしい体験を、現代の私たちも辿るのである。

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