1.誓ってはならない
・イエスは「誓ってはならない」と戒められた。我々の社会では誓いがありふれている。スポ-ツ大会では「正々堂々と闘うことを誓います」と宣誓し、裁判で証人に立つ時には「真実を語ることを誓います」と誓約し、教会でもバプテスマ式や、牧師就任式の誓約、結婚式の宣誓などがある。「誓うな」という戒めとどう整合するのだろうか。
-マタイ5:33-37「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
・「誓う」とは、「人が神仏や他人、自分自身に対してあることを守ると約束すること」だ。しかし、聖書は、神の名によって、人が守ることのできない空しい誓約をすることを厳しく戒めている。
-申命記23:22「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。誓願を中止した場合は罪を負わない。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい。」
・このような戒めがあることは、真実を欠いた誓願が多かったからであろう。イエスは誓いの教えの締めくくりとして言う「人は自分の髪の毛さえ、白くも黒くもできない。その人が、自分の非力を顧みず、神のみ名や、自分以上の権威を借りて、出来ないことまで誓うのは悪しきことである」と。人は自分が出来ること、見通しが立つこと、責任を取れることだけについてだけ、「然り、然り」と言える。出来ないことは、「否、否」とだけ答えるしかない。それ以上のことを、断言するのは人間の能力を越えたことであり、人の心から出る悪だとイエスは言われる。
2.復讐してはならない
・イエスは言われた「悪人に手向かうな」と。
-マタイ5:38-39「あなたがたも聞いているとおり『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。
・「目には目を、歯には歯を」、目を傷つけられたら加害者の目を傷つけ、歯を折られたら歯を折った者の歯を折る、同害報復法である。
-出エジプト21:23「命には命、目には目、歯には歯、手に手、足には足、やけどにはやけど、生傷に生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」
・この法は終わりのない復讐の繰り返しに歯止めをかけた制約法の意味を持つ。しかしイエスは、同害報復を廃して、愛と寛容で争いを治めよと教えている。平手で頬を打たれることは大きな侮辱である、返す手で反対の頬まで打たれたら、それは重ね重ねの侮辱である。それなのに、「右を打たれたら左の頬を向けよ」とイエスは言う。復讐するなとの教えである。
・カール・マルクスは語った「あなた方はペテンにかけられても裁判を要求するのは不正と思うのか。しかし、使徒は不正だと記している。もし、人があなた方の右の頬を打つなら左を向けるのか。あなた方は殴打暴行に対して、訴訟を起こさないのか。しかし、福音書はそうすることを禁じている」。マルクスにとって、山上の説教は愚かな、弱い人間の教えに映った。彼は殴られたら殴り返すことが正義であると信じ、その正義が貫かれる社会を作ろうとした。彼の弟子であるレーニンやスターリンはマルクスの意志を継いで、理想社会である「共産主義社会」を作ろうとしたが、それは化け物のような社会になってしまった。何故なのだろうか。報復は争いを拡大するだけなのである。
・イエス時代の貧しい人々は上着の着替えは持っていなかった。下着を取られたうえに、上着まで与えれば、彼の生活を奪うことになる。それなのにイエスは下着を奪う者に上着まで与えよと言われる。
-マタイ5:40「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。
・イエスはさらに強制労働を迫られたら喜んで従えと言われた。「一ミリオン」は「一マイル」に相当するロ-マの距離の単位である。ロ-マ占領下、ロ-マ兵または、他の権力者から強制労働を課せられた場合、課せられた倍の労働で応答せよという教えである。
-マタイ5:41「だれかが一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。
・さらに「求める者には与えよ」とイエスは言われた。与えることの出来る者は、与えられるだけの恵みを神からいただいており、さらに困っている人に与える機会を神からいただいている。従って、与えることを拒むのは神を拒むことである。貧しい人への贈り物は神への供え物と等しい。
-マタイ5:42「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
3.敵を愛しなさい
・イエスは敵を愛せと言われた。
-マタイ5:43-44「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。
・「隣人を愛せ」とはレビ記に書いてある。
-レビ記19:18「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である」。
・レビ記には「敵を憎め」とは書かれていない。それが当然だったからだ。多くの民族が狭い地域に混在して住むイスラエルの人々にとって、隣人とは同じ民の人々、同朋のことであり、同朋でないものは敵だった。パレスチナでは高い城壁をめぐらした町の中に人は住み、敵が攻めてきた時には城門はいつでも閉めることができる。城門の内側にいる人だけが隣人であり、城門の外にいる人々は何をするかわからない敵であり、敵を愛することは彼らにとって身の危険を意味した。だから、人々の理解では「隣人を愛するとは、隣人でない者=敵を憎む」ことだった。その人々にイエスは「敵を愛しなさい、城門の外にいる異邦人もまたあなたの隣人ではないか」と言われた。
・敵を憎むのは人間にとって自然の感情だ。イエスはその自然の壁を乗り越えよと語られる。
-マタイ5:46-47「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
・私たちが愛するのは家族であり、友人であり、同僚だ。共同体の中側にいる人が隣人であって、その外にいる人は敵、あるいは無関係の人であって、愛する対象ではない。しかし、イエスは言われる「あなた方は私の弟子ではないか。私に従うと言ってくれたではないか。取税人でもすること、異邦人でもすることをして十分だとすれば、あなた方が私の弟子である意味は何処にあるのか」。
-マタイ5:45-48「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである・・・だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
・古代において、敵を愛するのは危険だった。現代でもそうだ。多くの人々はイエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えた。人々は言う「愛する人が襲われた時、愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。そうしなければ、この世は不正と暴力で支配されるだろう。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代にも貫かれている。軍隊を持たない国はないし、武器を持たない軍隊はない。武器は敵を殺すためにあり、襲われたら襲い返す、という威嚇の下に平和は保たれている。
・日本はアメリカ軍の核の傘の下にあるが、米軍の軍事力の存在なくして日本の平和は守れないという前提に立つ。ただ本当に米軍の軍事力なしには日本の平和は守れないのか、聖書は「違うのではないか」と問いかける。イエスは「右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だ」と言われた。イエスの弟子パウロは「敵を愛せよ、愛することによって、敵は敵でなくなる」と言う。
-ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。