1.「ぶどう園の労働者」の譬え
・イエスは多くの譬え話を語られたが、その中でも「ぶどう園の労働者の譬え」は有名だ。ぶどうの獲り入れに雇われた日雇い労働者の話は、当時のぶどう園の労働事情が背景になっている。九月になるとパレスチナ地方のぶどうは一斉に熟し、雨季が来る。雨季になる前に収穫しないと、ぶどうは腐ってしまうから、収穫作業は手早く済ませねばならない。そこで一時的にたくさんの人手が必要になり、多くの日雇い労働者を雇い入れる。
-マタイ20:1-2「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は一日に一デナリオンの約束で労働者をぶどう園に送った」。
・日雇い労働者は農地を持たず、その日の労働を切り売りして暮らす。彼らは朝早くから広場に立って、雇い主が現れるのを待ち、賃金も雇い主の定めた額しか貰えなかった。ぶどう園の主人は夜明けごろ広場に出かけ、最初の労働者を日当一デナリオンで雇った。それでも人手が足りず、十二時と三時ごろにも出かけて労働者を雇った。さらに、午後五時になってまだ仕事につけない労働者がいたので、彼らも雇った。
-マタイ20:3-7「また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちも行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は十二時ごろと三時ごろにまた出て行き同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」。
・夕方仕事が終わって賃金を支払う時になり、主人は最後に来た労働者から賃金を払い始め、彼らに一デナリオンを払った。最初から働いた労働者はこれを見て、自分たちはもっともらえると期待した。しかしもらえたのは同じ1デナリオンであった。
-マタイ20:8-10「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで五時ごろに雇われた人が来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。」
2.後の者が先になり、先の者が後になる
・主人の賃金の支払い方は常識を覆すものだった。通常はしないような形で、労働時間の短い者から支払いを始め、彼らは1デナリをもらった。長時間労働者たちの期待は増す「自分たちはもっと多くもらえるだろう」と。ところが12時間働いた長時間労働者の賃金も同じ1デナリだった。長時間労働者は怒り始めた。最後に雇われた労働者と自分たちの賃金が、同じ一デナリオンでは納得できなかなかった。期待が落胆に変わり、落胆が怒りに変った。
-マタイ20:11-12「そこで受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは』」。
・「働いた成果に応じて報酬が与えられる」というのが世の常識であるのに、たくさん働いた人が少ししか働かなかった人と賃金が同じであるとはおかしい。朝から働いた労働者の不満は当然だ。しかし、主人は答える「あなたたちには約束通りの一デナリオン払ったではないか」と。
-マタイ20:13-16「主人はその一人に答えた『友よ、私は不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか。それとも、私の気前のよさをねたむのか』。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。
・主人は何故1時間しか働かない人に、1デナリを支払ったのか。それは1デナリがないと労働者とその家族は今日のパンが買えないからだ。それは生きるための最低賃金である。マタイによれば「5時から働いた人は怠けていたわけではなく、職を求めて朝から広場にいた」(20:7)、しかし体力がないと見られたのか、6時にも9時にも12時にも雇ってもらえなかった。父なる神は、この人々の悲しさを知って、彼らにもその日のパンを買うだけの賃金を下さった。しかし人々はそれを理解しなかった。
-マタイ20:14b-15「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、私の気前のよさをねたむのか」。
3.この物語は何を語るのだろうか
・主人は不平を言う労働者に語る「私の気前のよさを妬むのか」。「妬む」、原語では「悪い目」が用いられる。自分の財産や権利を守るために、人が自分の周りに張り巡らしてしまう視線のことだ。最初の労働者はこの世的な公平を求め、1時間労働者の賃金が12分の1デナリオンであれば満足したであろう。その結果、1時間労働者が今日生きるためのパンを買うことが出来なくとも、それは彼等の関知するところではない。この「悪い目」、自分の満足のためであれば他人のことを考慮しない悪い目を、人は持つことを教えるために、主人はあえて「短時間労働者」から支払いを始めた。
・この世は働けない者の悲しさや苦しさは考慮しない。日本では労働組合も非正規労働者の雇用改善のために取り組むことをしない。12時間労働者と同じ「悪い目」を持つからだ。この世の価値観は能力主義、業績主義であり、社会は労働能力の劣ったものを「役立たず」として捨てる。しかし、私たちがある人々を「役立たず」として捨てる時、実は私たち自身を捨てている。私たちもいつかは、無能力者になる。病気になるかもしれない。失業して無収入になるかも知れない。年をとれば身体的・精神的能力は衰える。他人に起こった不幸は自分にも起こり、能力主義の社会では何時敗者になるかわからないし、勝ち組も遅かれ早かれ負け組になる。「そこには平安がないではないか、それで良いのか」と神は言われている。
・「この最後の者にも同じように支払ってやりたい」、この言葉に神の愛がある。主人は1時間しか働かない人に1デナリオンを支払った。それは1デナリオンがないと労働者と家族は今日のパンが買えないからだ。それは生きるための最低賃金なのだ。マタイの記事によれば「5時から働いた人は怠けていたわけではなく、他の人たちと一緒に職を求めて朝から広場にいた」(20:7)、しかし体力がないと見られたのか、6時にも9時にも12時にも雇ってもらえなかった。父なる神は、この人々の悲しさを知って、彼らにもその日のパンを買うだけの賃金を下さった。「最後の者も生きるために必要なものは与えられる」、それが神の国の経済論理なのである。
・「この最後の者にも」、経済学者のジョン・ラスキンはこの譬えを基に資本主義経済を批判した著作「Unto The Lastこの最後の者にも」(1860年、岩波文庫訳)を発表した。現代社会の不幸を救済するために、神の国の経済学を導入すべきであると彼は主張した。彼の経済学は「人間を幸せにするための経済学」と言われ、それを読んだマハトマ・ガンジーがそれまでの資本主義や社会主義とも違った、「人間の心の変革を起こす」独自の改革思想に目覚めた契機になったと言われている。アジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したインドのアマルティア・センはラスキンの思想を現代化した。マタイ20章は現代社会のあり方に警告する神からのメッセージであり、同時に私たちの悲しみや苦しみは決して無駄ではないという喜ばしい福音を伝える。
・アメリカの作家のジョン・スタインベックは1939年に小作農民の苦難を描いた『怒りの葡萄』を発表した。飢饉により土地を追われ流民となった農民たちが、豊かなカリフォルニアの地で過酷な日雇労働者として労苦する様を描き、ベストセラーになった。スタインベックはキリスト教文学、とりわけ聖書に決定的な影響を受けた。本作でジョード一家が貧しいオクラホマから、乳と蜜の流れる、豊饒な「約束の地」であるカリフォルニアに脱出するところは、旧約聖書の「出エジプト記」をモチーフとしている。また、物語の最後で母親が言う「先の者が後にまわり、後の者が先頭になる」はマタイ20章の一節である。「葡萄」とは、神の怒りによって踏み潰される「人間」を意味する(ヨハネ黙示録14:17-20)。なお、怒りの葡萄(grapes of wrath)という表現は、ヨハネ黙示録に題材を得たアメリカの女流詩人ジュリア・ウォード・ハウの1862年作「リパブリック賛歌」(南北戦争での北軍の行軍曲)の歌詞から取られている。
*リパブリック賛歌歌詞「私の眼は主の降臨の栄光を見た。主は、怒りの葡萄が貯蔵されている葡萄酒醸造所を踏み潰す。恐るべき神速の剣を振るい、運命的稲妻を放った。主の真理は進み続ける」。
・神は弱き者の側に立たれる。コリントで洗礼を受けたのは奴隷たちが多かった。インドでクリスチャンになったのは指定カーストの人びとだった。アメリカでは白人よりも黒人が熱心なキリスト教徒になっている。日本で同じような立場にあるのが、「非正規労働者」であろう。日本では正規雇用者の平均所得は503万円だが、非正規雇用では175万円にすぎない。そして労働人口の37%、2000万人が非正規雇用者として働いている。ぶどう園の労働者の物語は現在の日本の物語なのではないか。