江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年12月22日祈祷会(マタイ24:29-51、世の終わりをどう理解するか)

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1.終末の始まりと再臨

 

・イエスの時代、人々は終末と神の国を待望していた。国は異邦人に支配され、生活は苦しく、現在に希望が持てず、新しい時代が来ることを待ち望んでいた。その中で、イエスの「神の国が来た」という教えは人々を惹きつけた。そのイエスは処刑されたが、復活された。初代教会はイエスの復活を「終末の始まり」と理解し、イエスが自分たちの生きているうちに再臨され、神の国が始まると期待していた。

-マタイ24:29-31「その苦難の日々の後、太陽はたちまち暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

・マタイは終末を迎える時、信徒はどうすべきかを譬えで示す。いちじくの木は5~6月頃になると若葉を出し、枝が柔らかくなり、夏が近づいたと分かる。それと同じように、神の国も近づいているとイエスは言われた。マタイはこのイエスの言葉を基本に、終末を前にした信徒たちに、注意深くあれと警告する。初代教会はイエスの再臨は近いと信じていた。

-マタイ24:32-35「『いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていることを悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。』」

 

2.目を覚ましていなさい。

 

・終末の日がいつ来るのかは誰にも分からない。知るのは神のみである。ノアの洪水の時も人々は何も気付かず、飲み食いし、日々の暮らしを続けていた。そこへ洪水が突然やって来た。人の子もそれと同じように突然に来る。神殿は崩壊し、国は滅んだが、終末は来なかった。終末はないと弛緩していた教会の人々に、マタイは「それは必ず来るから備えよ」と警告する。

-マタイ24:36-39「『その日、その時は、だれも知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。』」

・神の裁きは予告もなく突然始まる。畑仕事や臼で穀物を挽く日常の何気ない労働の中に、突然神の国が始まる。二人の男が畑で働いていると一人が連れ去られ、一人はその場に残される。二人の女が、臼で穀物を挽いていると突然、一人は連れ去られ、一人は残される。それが終末の時である。

-マタイ24:40-41「『そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。』」

・だから「目を覚ましていなさい」と言われる。主の来臨が何時あるか分からないからである。夜の闇にまぎれて侵入して来る泥棒のように、人の子は思いがけない時に来る。

-マタイ24:42-44「『だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だおあら、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』」

 

3.忠実な僕と悪い僕

 

・この譬えは、人の子の来臨を迎える時の良い例と悪い例を、主人との約束を果たした僕と果たさなかった僕を譬えとして語る。

-マタイ24:45-47「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間通り彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。主人が帰って来たとき、言われた通りにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を任せるにちがいない。」」

・主人が出かけた後、悪い僕はとんでもない行動に出る。仲間に暴力をふるって追い払い、別の仲間を誘いこんで飲食にふけり、乱れた所へ主人が帰って来て、彼は厳しく罰せられる。この例話は、再臨などないと思い込み、油断する教会の指導者に向けられている。

-マタイ24:48-51「『しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 

4.終末の喩えを私たちはどのように聞くのか

 

・初代教会の人びとは、終末は近いと信じていた。パウロ自身も彼が生きているうちに世の終わりが来ると思っていた。それは歴史の完成であり、喜ばしいとき、パウロは全世界に福音をのべ伝えた時、その時に終末=イエスの再臨が来るとして、彼はイスパニア伝道を急いだ。

-ローマ15:22-24「あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです」。

・諸教会も終末の接近を信じていたが、そのことが様々な思惑を呼んでいた。パウロは諸教会に「落ち着け」と語る。

-第一テサロニケ4:14-15「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主の御言葉の通りに言いますが、主が再び来られる時まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません」。

・テサロニケ教会のある人々は、異教徒からの迫害激化の中で、「終末は既に来ている。日常の仕事などしている時などではない」と熱狂し、教会を混乱に巻き込んでいた。パウロは戒める。

-第二テサロニケ2:1-2「主イエス・キリストが来られることと、その御許に私たちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、私たちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(2:1-2)。

・人々は戦争・地震・飢饉・迫害等の緊急事態に遭遇すると、それを終末の前兆だと考える傾向がある。エホバの証人は1914年10月を「終わりの日の始まり」と定義し、4年後の1918年に「主の再臨」があると預言していた。第一次世界大戦が1914年に始まり、キリスト教徒同士が殺し合いを始め、戦死者は1600万人にも達した。またスペイン風邪の大流行で当時の世界人口の三分の一にあたる5億人が罹患し、2000万人を超える人が犠牲になった。まさに「世界の終末」が迫っていると思わざるを得ない出来事を前に、エホバの証人の終末預言が為された。

・終末、世の終わりという考えは日本人にはないが、聖書は歴史には一つの到達点があり、目標があると主張する。それが世の終りの時だ。その聖書が語るのはキリストに希望を置く終末論だ。モルトマンは語る。

-モルトマン・キリスト教倫理から「キリストの到来によって救いの完成が始まり、キリストと共に未来が既に始まった。私たちがイエスの人生と教え、十字架の死に至る彼の献身と復活を終末論的に理解するならば、私たちは山上の説教における戒めのメシア的解釈を、キリストの死と復活においてこの世における神の国の形成を発見する。神の国の倫理は服従であり、イエスへの服従の倫理は、イエスの未来を先取りする倫理である」。

・「毎日の生活の中で、キリストの言葉に従って生きる」ことが求められている。キリストにある愚者としての生き方だ。彼らは「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分たちには何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える」。彼らによって福音が担われ、私たちにも継承されている。ヤコブはそれを「待ち望みつつ、日毎の仕事に専念する」生き方と教える。

-ヤコブ4:15「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」。

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