1.何故迫害が起きるのか
・ヨハネの黙示録はドミティアヌス帝のキリスト教迫害下で書かれた。当時のアジア州では、皇帝礼拝の強要を初めとして、政治的・宗教的迫害が見られた。同時にキリスト教を異端として会堂から排除しようとしたユダヤ教会からの迫害もあった。危機にあるキリスト教共同体を守り、迫害の中にあっても終末と再臨によって立場が逆転することを確約し、教会を勇気づけようとしたところに、本書の動機がある。
・危機状況において、アジア州の諸教会が示した忍耐、愛、忠実が賞賛されているが、サルディス、ラオディキア等の教会に対しては、信仰の弛緩や怠惰が叱責の対象になり、悔い改めを強く求められた。手紙に共通していることは、終末とキリストの来臨が差し迫っており、それに備えるよう、叱責あるいは励ましが為されている点である。スミルナ教会には讃辞が与えられているが、同時に「死に至るまで忠実であれ」と勧められる。
-黙示録2:10「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている・・・死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」。
・他方、ラオディキア教会に対しては「冷たくも熱くもないからあなたを吐き出す」と言われている。経済的な豊かさの中で、教会の信仰は自己満足的な、生ぬるい信仰に堕していった。
-黙示録3:15-16「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない・・・冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている」。
・ある教会は迫害に苦しみ、別の教会は迫害を回避している。信仰的な妥協をすれば、そこには迫害はない。迫害や殉教は自動的に起こるものではなく、選び取っていくものである。
-ヨハネ15:18-19「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなた方を世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。
・信仰に徹すれば世と対立する。「それを恐れるな」とイエスは言われた。
-マタイ 5:11-12「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい・・・あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」
・ヨハネは世と妥協しなかった。だから、パトモス島に流刑された。その彼に、天が開け、幻が示される。
-黙示録4:1「私が見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くように私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った『ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう』」。
2.天が開いた
・黙示録は4章から幻の開示が始まる。ヨハネが天で見たものは、玉座に座っておられる神であった。玉座は光り輝いていた。
-黙示録4:2-3「私は、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた・・・玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」。
・ヨハネの幻はエゼキエルが流刑地バビロンで見た天の幻に酷似している。おそらくヨハネはエゼキエルの幻を下地に、天上の出来事を描いているのであろう。
-エゼキエル1:26-28「大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。腰のように見える所から上は、琥珀金が輝いているように私には見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見える所から下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。周囲に光を放つ様は・・・虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった」。
・玉座の周りには24人の長老が座り、四つの生き物が絶え間なく讃美していた。地上では、ローマ皇帝(サタン)が思うままに信徒を苦しめている。地上の現実を見る時、そこに何の救いもない。しかし天上では主の周りで讃美が為されていた。
-黙示録4:4-8「玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた・・・この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。・・・彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方』」。
・伝統的な解釈では、四つの生き物は、四人の福音書記者、24人の長老は諸教会を示す。地上世界ではローマの絶対支配の中で信仰者は苦しんでいるが、天上世界では神が支配し、神の証し人が「自分たちの冠を玉座の前に投げ」(服従の誓い)て、忠誠を誓っている。
-黙示録4:10-11「二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った『主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです』」。
3.救いはどこから来るのか
・「あなたこそ栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」とは、当時のローマ皇帝に捧げられた賞賛の言葉である。地上の現実がどのようであれ、支配者は皇帝ではなく主であることをヨハネは示された。私たちが地ではなく、天を見た時、救いがどこから来るかがはっきりする。救いは「天地を造られた主のもとから」来るのである。
-詩篇121:1-2「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから」。
・地上で十字架にかけられたキリストが、「復活し、昇天された方は、今神の右の座におられる」と、パウロはその信仰を表明する。そしてこのキリストは地上で行われていることをすべて見ておられる。
-コロサイ3:1「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」。
・「キリストが神の右の座に着いておられる」、それが私たちの信仰だ。1968年、チェコの社会主義改革がソビエトの戦車及び五カ国連合軍の戦車によって踏みにじられた。その年の十二月、バルトは友人トゥルンナイゼンと電話で話した。トゥルンナイゼン「時代は暗いね」、それに対してバルトも「実に暗い」というお話をこもごもし合う。その晩、バルトは亡くなった。バルトの最後の言葉が残されている(エバハルト・ブッシュ「バルト神学入門」新教出版社)。
-カール・バルトの最後の言葉「意気消沈だけはしないでおこう。何故なら、支配していたもう方がおられるのだから。モスクワやワシントン、あるいは北京においてだけではない。支配していたもう方がおられる。神が支配の座についておられる。だから、私は恐れない。最も暗い瞬間にも信頼を持ち続けようではないか。希望を捨てないようにしよう。すべての人に対する、全世界に対する希望を。神は私たちを見捨てたまいはしない」。
・ヨハネ黙示録は2000年前の小アジア地方の出来事が描かれているが、現代において、類似した教会への迫害が中国においてみられる。中国のキリスト教徒は6千万人(公認教会3千万、非公認教会3千万人)とされるが、近年では「キリスト教の中国化」が求められ、「祖国を愛すること」、「共産党を支持すること」が求められ、「西側の宗教文化による腐敗に抵抗する」としてクリスマスや日曜学校等の禁止に踏み切る地方自治体も増えている。多くのキリスト教徒は、共産党が宗教教育を統制することを容認すれば、神よりも党を優先せざるを得なくなり、受け入れがたいと語る(ロイター、2018/01/03)。また本年(20年)7月には中国で新型コロナウイルスの感染拡大などをめぐって、習近平指導部の対応を繰り返し批判してきた清華大学教授・許章潤氏が公安当局に拘束された。習近平指導部は、香港で反政府的な動きを取り締まる「香港国家安全維持法」を導入し、中国本土でも政府への批判を封じ込める動きを強めている(NHK、2020/7/7)。中国では言論の自由がなくなり始めている。これは紀元90年頃のヨハネ黙示録と同じ状況ではないだろうか。