1.サルディス教会への手紙(目を覚ませ)
・ヨハネはローマ帝国の迫害に苦しむ小アジアの七つの教会に宛てて手紙を書く。しかし、全ての教会が迫害の中にあったのではない。サルディスはかつてのリディア王国の首都で繁栄した商工都市であった。サルディスの教会にはまだ迫害は及んでいない。その分、信仰が無気力化、停滞化していた。
-黙示録3:1-2「私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。私は、あなたの行いが、私の神の前に完全なものとは認めない」。
・サルディスの教会に賞賛の言葉はない。「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」、教会のなまぬるい信仰が批判されている。人が世の現実と妥協した時、信仰は死ぬ。サルディスの人々は「皇帝を拝んでも信仰は汚れない」として妥協したのかもしれない。その結果、迫害はなくなったが、信仰は死んでしまった。彼らには悔い改めが迫られる。
-黙示録3:3「どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、私は盗人のように行くであろう。私がいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない」。
・1930年代のドイツではヒトラーに迎合するキリスト教会が、「ドイツ的キリスト者」として、一時はドイツ教会内で支配的になったが、敗戦と共に彼らは消失した。他方、少数の者たちは、「告白教会」を形成し、戦時中には多くの犠牲者を出したが、戦後のドイツ教会の再建の柱となって行った。教会が堕落しても必ず少数の者は残り、教会はこの少数者の信仰の上に再建される。
-黙示録3:4-5「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着て私と共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。私は、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」。
2.フィラデルフィア教会への手紙(あなたは良く忍耐した)
・フィラデルフィアの教会は迫害の中で主の言葉を守った。フィラデルフィアは「兄弟愛」の意味であり、彼らは称賛されている。彼らは権力者の前でキリストを否定しなかった。
-黙示録3:8「私はあなたの行いを知っている。見よ、私はあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、私の言葉を守り、私の名を知らないと言わなかった」。
・そこにはサタンの集いがあったが、教会は真理を守り抜いた。ここでの敵対者はユダヤ人教会のようだ。
-黙示録3:9-10「見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、私があなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についての私の言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、私もあなたを守ろう」。
・戦前の教会迫害の中で信仰を守り通したのはホーリネス教団のみであった。彼らは天皇を神とすることを拒否し、弾圧されていった。フィラデルフィアの教会は迫害の中で主の言葉を守ったが、日本でも守った人々がいる。
―1942年ホーリネス教団弾圧事件が起り、多くの教職者が逮捕された。予審調書は信仰とは何かを示している。係官「信条の根拠旧新約聖書を読むと,全ての人間は罪人だと書いてあるがそれに相違ないか」。菅野「それに相違ありません」。係官「では聞くが天皇陛下も罪人なのか」。菅野「天皇陛下が人間であられる限り,罪人であることを免れません」。係官「天皇陛下が罪人なら天皇陛下にもイエス・キリストの贖罪が必要だという意味か」。菅野「天皇陛下が人間であられる限り,救われるためにはイエス・キリストの贖罪が必要であると信じます」。
・フィラデルフィア教会は、皇帝礼拝に現実的に対処していったユダヤ教徒からの迫害も受けている。妥協する人々は妥協しない人々を憎む。ホーリネス教団は日本基督教団からも除名されて、二重の苦しみを味わった。しかし忍耐する者は救済の手が天からくる。
―黙示録3:11-12「私は、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、私の神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。私はその者の上に、私の神の名と、私の神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、私の新しい名を書き記そう」。
3.ラオディキア教会への手紙(冷たくもなく、熱くもなく、生ぬるい)
・ラオディキアは商業都市として栄え、目薬の産地として有名で、豊かさを誇った。経済的な豊かさの中で、教会の信仰は自己満足的な、生ぬるい信仰に堕していった。平和と繁栄は信仰を生ぬるくする。
―黙示録3:15「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」。
・キリストと出会いながら、キリストへの服従も隣人への奉仕もせず、無関心と不徹底な信仰生活を送る教会に対して、主は「私はあなたを口から吐き出そうとしている」と言われる。
―黙示録3:16-17「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はないと言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」。
・彼らは「私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」というが、実のところ「自分が惨めな、哀れな、貧しい、目の見えない、裸の者である」ことが分かっていないと言われる。自己満足の信仰生活、礼拝を守りさえすれば良いという人々に、主は「私はあなたを知らない」と言われる。
―マタイ7:21-23「私に向かって、主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者が私に、主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんかと言うであろう。そのとき、私はきっぱりとこう言おう。あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ」。
・主は戸口に立っておられる。私たちが心を開けば、主は来られる。心を開けと主は言われる。
―黙示録3:20「見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」。
4.七つの教会へのメッセージについて(蔵田雅彦氏による)
・ヨハネ黙示録2-3章では、七つの教会へのメッセージが展開される。七つの教会の置かれた状況や信仰の内実については違いがあるが、全体としてローマ帝国の政治的迫害にさらされており、内部にはグノーシス的思想や土着信仰(バラムの教え、ニコライ派、イゼベルの教え)などによる混乱があり、またユダヤ教による異端排撃にも直面していた。そのような状況を共有するヨハネは、自らを預言者として、アジア州の諸教会に差し迫ったキリストの再臨を知らせ、この世の終末を告げて、迫害の下にあった諸教会を励まそうとした。
・ヨハネの黙示録はドミティアヌス帝の治下である90年代に書かれたと思われるが、当時のアジア州では、全面的なキリスト教迫害にまでは至っていないが、皇帝礼拝の強要を初めとして、政治的・宗教的圧迫が見られた。ヤムニヤにおいて正典をまとめ、キリスト教を異端として会堂から排除しようとしたユダヤ教会に対して、アイデンティティの危機にあったキリスト教共同体を守り、迫害の中にあっても終末と再臨によって立場が逆転することを確約し、教会を勇気づけようとしたところに、本書執筆の一つの動機があるように思われる。
・この様な危機状況において、アジア州の教会が示した忍耐、愛、忠実が賞賛されているが、サルディス、ラオディキアをはじめとして信仰の弛緩や怠惰は叱責の対象になった。そしてスミルナとフィラデルフィアの教会を除いて、アジア州の教会は悔い改めを強く求められた。こられの手紙に共通していることは、終末とキリストの来臨が差し迫っており、それに備えるよう、叱責あるいは励ましが為されている点であろう。苦難を経験していたアジア州の教会にとって、ヨハネが書き送った手紙は、堕落したあるいは眠っていた信仰を覚醒させ、来るべき神の国への参与を確信させ、それにふさわしい証しへと導いたことであろう(蔵田雅彦、アレテイア・釈義と黙想から)。ヨハネ黙示録はおどろおどろしい預言と黙示の書ではなく、まさに「牧会書簡」なのだと思える。