2020年2月5日祈祷会(ヤコブ3章、舌を制御しなさい)

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1.舌は火であり、人を殺す力を持つ

 

・ヤコブは教会の指導者、教師として、言葉の持つ恐ろしさをしばしば経験した。教師の心無い一言が、一人の人を天国から締め出してしまうのを彼自身が経験しているのであろう。

-ヤコブ3:1-2「私の兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。私たち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。私たちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」。

・舌は馬にはめる「くつわ」、船全体を方向づける舵のようなものだ。舌がその人の全人格を支配する。舌は人を破滅させることも出来る。

-ヤコブ3:3-5「馬を御するには、口に轡をはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」。

・人は舌を制御できない。舌は燃えさかる火のように、相手を焼き尽くしてしまう。

-ヤコブ3:6-8「舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」。

・人は口で讃美しながら、同じ口で神の子である兄弟姉妹を呪う。だから教会の中でも争いが起きる。制御されない舌は諸悪を招いている。

-ヤコブ3:9-10「私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。

・教会も人の集団であり、様々な派閥が生まれ、争いが起こる。興奮のあまり相手を罵る人も出てくる。信仰生活がある時は人間的になり、別な時には神に向くから、二枚舌になるとヤコブは語り、「洗礼を受けて変えられたにもかかわらず、そうであるのは信仰に問題があるのではないか」と問いかける。人間の本性は悪だ。それが舌を通じて人を害する。キリスト者は舌を制御することを学ばなければいけない。

-ヤコブ3:11-12「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。私の兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません」。

 

2.舌を制御するために天の知恵を

 

・人間の本質は悪であり、私たちの中には何の良いものもないことを知ることが大事だ。

-ヤコブ4:1-3「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」。

・ねたみや利己心は私たちの心にある悪(原罪)から来る。放置すれば、私たちは人を殺しかねない言葉を吐く。悪を制御する知恵が必要だ。

-ヤコブ3:14-16「あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです」。

・悪を制御する知恵は天から来る。神の知恵であるキリストを見よ。キリストは私たちのために十字架で死なれた。だから私たちも十字架で死ぬのだ。十字架を負ってキリストの後に従う時、人を呪う言葉が出るはずは無いではないか。

-第一コリント1:21-25「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。

・神の知恵を求め、必要な努力を為せ。時間を割いて聖書を読み、時間を割いて祈れ。それは一人で出来ないから、私たちは共に集まって聖書を読み、共に祈るのだ。祈祷会は礼拝を支える基礎なのだ。

-ガラテヤ6:7「思い違いをしてはいけません・・・人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」。

・神の知恵を求めよ。神の知恵は人を柔和で正しい者に、平和を実現する者にする。

-ヤコブ3:17-18「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」。

 

3.人間の本性は悪なのか、善なのか

 

・キリスト教の原罪論によれば、人はアダムの罪によって穢された本質的に堕落した存在で、イエス・キリストへ信仰を通して神の慈悲により救われるとする。ヤコブの立場はそうであるし、パウロも同じ立場に立つ。

-ローマ3:10-18「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない・・・善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」。

・それを社会学的に展開したホッブス(1588~1679)は、「自然状態の人間は本質的に(万人の万人に対する闘争状態)である」とした。故に彼は国家による統制を求める。

-ホッブス・リヴァイアサンから「国家がない自然状態では、人間は精神と肉体両面において、誰しも平等にできている。従って、複数の人間が共通のものを欲し、しかもそれを全員が享受できない場合、人間は他人を敵と見なし、相手を滅ぼすか屈服させようとする。つまり、万人の万人に対する戦いが起こり、人々の生命が危険にさらされると同時に耐えがたい恐怖が発生する」

・人間の本性を善と考える哲学者もいる。古代の神学者ペラギウスは「人は原罪によって穢されておらず、完全に善か悪を選ぶことができる」とし、ジョン・ロックは「自然状態の人間には、自然法則に従いながら行動を命じる完全な自由がある」とする。バートランド・ラッセルは「道徳的な罪あるいは罰は、捕食者であった我々の祖先から受け継いだ本能である。生物学的決定論と環境決定論によれば、人間の行動は生物学的、環境的に決定されており、一部の人はしたがって、悪いとされる行動にも良いとされる行動にも、本当に個人の責任を問うことができない」と主張する。

・アウグスティヌスは、私たちの中に良い麦と悪い麦があり、どうすれば良い麦を育て、悪い麦を取り除くのかを教える。

-アウグスティヌス・神の国から「誰が毒麦で誰が良い麦であるかは私たちにはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、私たち各自のうちに毒麦と良い麦が共存しているともいえる。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくように」。

・私たちはどうすればよいのだろうか。イエスは「人の中から出て来るものが人を汚す」といわれた(マルコ7:15)。内側の汚れは水でいくら洗っても、清くはならない。イエスの弟子たちは過去の生き方を捨てた。私たちも捨てる、これまでと変わる必要がある。人間関係を良くしようといくら努力しても、人間関係は改善しない。何故ならば、汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからだ。私たちの心が変えられること、復活のイエスとの出会いを通して新しく生まれる以外に救いはないと思える。

-第一ペテロ2:23-24「(イエスは)ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。

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