江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年12月16日(マタイによる福音書4:1-11、荒野の誘惑)

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1.人はパンだけで生きるにあらず

 

・イエスは荒野で悪魔から誘惑を受けられた。イエスが導かれた荒野は、エルサレムと死海の間の荒野で、世俗を遠く離れた静寂の地であった。イエスの最初の試練は四十日間の断食であった。バビロン捕囚後のユダヤ教徒は、シナイ山で十戒を授けられたたモ-セの四十日の断食(出エジプト34:28)に倣い、修行に断食を取り入れていた。断食は食を断つことで、神への従順と敬虔を示す業であった。断食で空腹を覚えたイエスの前に、誘惑する者が現れ、三度イエスを誘惑した。

・「イエスは霊に導かれて荒野に行かれた」、イエスに試練を与えられたのは父なる神であったとマタイは理解している。最初の誘惑は「神の子なら石をパンに変えよ」という、空腹になられたイエスへの挑発であった。イエスはそれに対し、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉で生きる」(申命記8:3)と応じ、誘惑を退けられた。

-マタイ4:1-4「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と書いてある。』

 

2.神を試みてはいけない

 

・次に悪魔は、「神の子なら奇跡を起こせ」と誘惑する。「主はあなたのために、御使に命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないよう守る」(詩編91:11-12)と悪魔は誘った。イエスは悪魔に「あなたたちの神、主を試してはならない。」(申命記6:16)と答えられ、誘惑を退けた。

-マタイ4:5-7「次ぎに、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根に立たせて、言った。『神に子なら飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちがあなたを支える」と書いてある。』イエスは『「あなたの神である主を試してはならない。」とも書いてある』と言われた。」

・三番目の誘惑は権力への誘いだった。悪魔はイエスを高い山に連れて行き、世界を見せて言う「私を拝むなら世の権力をあなたにやろう」と。イエスは「退け、サタン」と言われてそれを拒絶された。

-マタイ4:8-11「更に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある」。そこで悪魔はイエスから離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた。」

・「退け、サタン」という言葉は、後にペテロに対して用いられる。受難予告したイエスに対し、「そんなことがあってはなりません」と反論するペテロを、イエスは「退け、サタン」という言葉で叱責される。このペテロの体験が後に荒野の誘惑として物語化されたと考える聖書学者もいる。

-マタイ16:23「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」。

 

3.この物語を聖書学はどう見るか

 

・新約学者・橋本滋男の解釈

-「この物語はルカの記事との共通性が著しいので、語録資料Qに由来すると考えてよい。かつてはイエスのメシア意識の自己検討や、自らの使命をめぐっての内的葛藤が物語化したと言われていたが、物語は初期教会の弁証作業において成立し、イエスの生涯に組み込まれたと考えるべきである・・・荒れ野の物語は、その成立や内容において、イエスがユダヤ教の期待したような民族的・現世的メシアではなかった理由をユダヤ教に弁証せざるを得ない状況を反映している」。

-「この物語の悪魔の誘惑は、十字架上におけるイエスに投げかけられた嘲笑の言葉と結びつける必要がある。十字架上のイエスに対し、通行人や祭司長たちは、『神の子なら十字架から降りてこい』と罵る(27:40-43)。しかしイエスはそれを拒否する。荒野の試練では、イエスは人間の立場に留まり、『神のようになる』ことを拒否し、すべてを神に委ねる道をとる。こうして彼は自らのために神の力を利用することを退ける。それはいずれ、十字架の道となるのである」(新共同訳新約聖書注解Ⅰ)。

・新約学者・大場昭博の解釈

-「イエスの誘惑物語は、マタイ、ルカがそれぞれQ資料から採用しているが、誘惑の順序は異なる。マルコには伝承的にはより古い記述があるが(1:12-13「それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」)、マタイは自らの物語の枠にこの伝承を採用している。イエスの誘惑物語は史実に基づくというより、教会がイエスをどのような意味において『神の子』と受け止めたかのメシア理解が込められており、また同時代のユダヤ教のメシア理解に対する反論の要素も働いている」。

-「イエスの「神の子」性は、奇跡を行う能力ではない。当時のユダヤ教のメシア理解には、荒れ野で奇跡が起こされることが期待された。そのメシア運動を担った立役者がゼロータイ(熱心党)であった。マタイの読者には、熱心党のローマに対する武力蜂起は、サタンの誘惑の現実化と映ったのか知れない。熱心党運動に参加しなかったキリスト教徒たちはペラへと逃亡した」。

-「イエスは神の子であるから全能の力を持っているのではなく、神の子であるから人間の弱さを担っている。イエスは経済的豊かさ、宗教的名望、政治的権力を捨てることによって、人間である弱さの限界のただ中で、神の言葉に生き、神を試みず、神のみに仕える生き方を示した。少なくともマタイの読者はそのように読んだ」。

 

4.釈義から黙想へ(ヘンリ・ナウエン「イエスの御名で」の読み方)

 

・ハーバード大学神学部教授であったヘンリ・ナウエンは、50代に入ってから、霊的な不安を体験するようになり、ハーバード大学でのアカデミックな生活を捨て、カナダのトロントにある知的障害者施設ラルシュ共同体の司祭となる。その生活を通し、自らの過去が、いかに能力を誇示し、人々の歓心を集め、権力を手にしようとする欲求に影響されていたかを知る。その自分の変化をナウエンはマタイ4章「荒野の試練」の中に読んだ。聖書学は歴史的事実を追求するが、それは推論に過ぎない。史実にこだわるよりも、「私はどう聞いたか」というナウエンの読み方の方が大事であろう。

・第一の問いに対する応答(能力を示すことから祈りへ)

-「イエスの最初の誘惑は、自分の能力を示すことにありました。すなわち、石をパンに変えるようにイエスは誘惑されたのです。ああ、私もそのようにできたらと何度願ったことでしょう・・・私たち司祭や牧師は、人々を助け、空腹の者に食べさせ、飢えて死にそうになっている者を救うために召されたのではないでしょうか。私たちは、人々の生活に変化をもたらす者であることを、おのずから多くの人が気づくような何かを行うために、召されたのではないでしょうか。病の者を癒し、空腹な人に食べさせ、貧しい者の苦しみを和らげるために召されたのではないでしょうか」。

-「イエスも同じような問いに直面しました。民衆の要求に応えて石をパンに変え、神の子としての力を示すように求められました。しかしイエスはあくまでも御言葉をのべ伝えるという使命に徹し、こう言われました。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による』」。

-「主の務めに携わる者が経験する主な悩みの一つは、自己評価の低さに苦しむということです。今日、多くの司祭や牧師が、人々にほとんど感化を与えることの出来ない自分に気づき、悩んでいます。彼らは非常に忙しく働いていますが、際立った変化を人々の中に見出すことが出来ません。そこで自分の努力が実を結んでいないと思ってしまうのです・・・(しかしラルシュに来てわかったことは)ますます多くの人が、どこに癒しを求めるべきかも知らないままに、深い道徳的な、霊的な障害に苦しんでいることです。クリスチャンの新しいリーダーシップの求められる場が、ここにあることは事実です・・・その使命は、すべての華やかな成功の裏に潜む苦悩と深く連帯し、そこにイエスの光をもたらすように私たちを導くのです」。

・第二の問いに対する応答(人気を求めることから、仕えることへ)

-「イエスの直面した誘惑は、まさに、人々の注目を浴び、大きな賞賛を勝ちうる何かをして見せることでした。つまり『神殿の屋根から下に身を投げて、み使いの腕に抱きかかえられるところを見せなさい』という誘惑でした。しかしイエスはスタントマンになることを拒否されました。イエスは自分を証明するために来られたのではありません。自分の語ることに価値があることを示すために、熱い石炭の上を歩いたり、火を飲み込んだり、ライオンの口に手を差し入れたりするために来られたのではありません。イエスは言われました『あなたの神である主を試みてはいけない』」。

-「皆さんの多くは、綱渡りに失敗した者のように自分を見ているかもしれません。大勢の人を引き付ける力がなかった、多くの回心者を生み出すことが出来なかった、魅力的な儀式を演出することが出来なかった、自分が望んだようにすべての人から人気を得ることが出来なかった、思った通りに人々の必要に応えることが出来なかった・・・しかし、重要なことは、癒すのはイエスであって私ではない、ということです。真理の言葉を語られるのはイエスであって私ではありません。イエスが主であって、私が主なのではありません。もし私たちが、(自分一人ではなく)兄弟姉妹と共に神の贖いの力をのべ伝えるなら、そのことが目に見えて明らかにされます」。

・第三の問いに対する応答(導くことから導かれることへ)

-「ここにおられる方はどなたも、イエスが受けた第三の誘惑が何であったかはご存知でしょう。それは権力への誘惑でした。『私は、この世の国々とその栄華をすべてあなたに与えよう』と悪魔はイエスに言いました・・・しかしイエスは神の子としての権力にしがみつくことなく、ご自身を無にして、私たちと同じになられました。キリスト教の歴史の最大の皮肉の一つは、指導者たちがそのイエスの御名を語りながら、権力の誘惑、政治的、軍事的、経済的、あるいは道徳的、霊的能力という力の誘惑に、たえず負けてきたということです。十字軍が結成され、宗教裁判が行われ、インディアンを奴隷にし、壮麗な聖堂や華やかな神学校が立てられたのです。しかしそこで人々は、果てしのない良心のごまかしに終始しました」。

-「イエスは問われます『あなたは私を愛するか』。しかし私たちはイエスに問いかけます「私たちはあなたの御国で、あなたの右と左に座ることが出来ますか」(マタイ20:21)・・・痛みに満ちた長い教会の歴史は、神の民が、時には愛よりも権力を、十字架よりも支配を、導かれる者よりも導くものになろうとする誘惑にさらされた歴史だと言えます・・・これからの時代のクリスチャン・リーダーシップに必要とされる最も重要な資質は、権力と支配によるリーダーシップではなく、イエス・キリストが示してくださった、無力さとへりくだりのリーダーシップです。愛のためには権力を放棄することの出来るようなリーダーシップのことです・・・もしこれからの教会に何らかの希望があるとすれば、その教会の指導者たちが喜んで導かれるものとなることによって、貧しい教会になることでしょう」。

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