1.テトスとはどのような人か
・テトスはパウロの弟子で宣教の協力者であった。使徒行伝にはその名前は出ないが、ガラテヤ書ではパウロやバルナバと共にエルサレム使徒会議に参加している。パウロはギリシア人であるテトスが、割礼を受けずにキリスト教徒として受け入れられたと報告する。
-ガラテヤ2:1-3「その後十四年たってから、私はバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。私は、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、主だった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、私と同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした」。
・パウロはテトスを高く評価し、「仲間」「協力者」と呼び、その熱心さを賞賛している。第二コリント書では、テトスはエルサレム教会のための募金をコリントで行い、またパウロの手紙をコリントへ届けるために派遣されている。
-第二コリント8:23「テトスについて言えば、彼は私の同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています」。
・伝承によればテトスはパウロによってクレタ島の司教に任じられ、1世紀始めにクレタ島で生涯を終えたという。彼の名を冠した「テトスへの手紙」はパウロがクレタ島のテトスにあてた手紙であるとされるが、実際はパウロの弟子たちにより書かれたものと思われる。主要テーマは「教会生活の秩序に関する」事柄と、「異端教師との戦い」である。
-テトス1:1-5「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから・・・信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神と私たちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。あなたをクレタに残してきたのは、私が指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」。
・パウロはクレタでテトスと共に伝道し、教会が立てられた。しかし、組織は未整備であり、信頼できる指導者(長老、監督)を選ぶ必要があった。その長老の選定基準をパウロの後継者は書く。
-テトス1:6-9「長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません」。
・評判が良いこと、家庭が円満であり、節制に勤め、親切で分別があることが求められている。教会の監督者である以上、当然だろう。しかし、規定を文字通りに適用することは危険である。何故なら牧師も罪人に過ぎず、肉の欲から自由ではない。牧師に必要な基本資質は「神からの召命への信仰」である。
-テトス1:3「神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。私たちの救い主である神の命令によって、私はその宣教を委ねられたのです」。
・牧会者も右に左にそれながら、生きる。彼らも落とせば割れる土の器に過ぎない。その牧会者に神は福音という宝を委ねて下さった。牧会者たちはそれを知るゆえ、過ちを犯しても、繰り返し神に立ち返る。
-第二コリント4:7-9「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。
2.異なる教えとの戦いに中にあって
・クレタでも異なる教えを説く者があった。彼らの多くはグノーシス的ユダヤ人キリスト者であり、人々に割礼を求め、ユダヤ教の戒め(食物規定)を守ることを求めた。牧会者は「彼らを排除せよ」と命じる。
-テトス1:10-14「不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。その者たちを沈黙させねばなりません。彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました『クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ』。この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい」。
・ユダヤ教徒は豚肉を食することを禁じ、カトリック教徒は金曜日の肉食を禁じ、ピューリタンは禁酒禁煙を信徒の要件とする。人は信仰を「見える形式と儀式」の中に閉じ込めやすい。しかし、信仰は飲食の問題ではない。汚れは口から入るものではなく、口から出るものである(マルコ7:14-23参照)。
-テトス1:15-16「清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です」。
・人は支配者になれば、主に聞くことをしないで、自己の考えを推し進める。禁酒禁煙も長老資格も偶像崇拝になりかねない。だから主は私たちに荒野の試練を通して成長を促される。
-申命記8:2-3「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・・主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。
3.異端とは何か
・テトス書の書かれた理由は異端排斥のためであろう。ギリシア哲学は「肉体は精神の牢獄」であり、霊こそが人間の本質であるとして、肉を軽視した。その影響で一部の人たちは、キリストの受肉(神の子が人となってこられた)や十字架の贖罪(神の子が死んで罪が赦された)、さらには復活(神の子は死なれたが甦られた)さえ否定し、再臨も認めなかった。当時書かれた旧約外典「知恵の書」では、救いを信じることのできない人々の言葉を記している。
-知恵の書2:1-7「我々の一生は短く、労苦に満ちていて、人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。我々の知るかぎり、陰府から戻って来た人はいない。我々は偶然に生まれ、死ねば、まるで存在しなかったかのようになる・・・だからこそ目の前にある良いものを楽しみ、青春の情熱を燃やしこの世のものをむさぼろう。高価な酒を味わい、香料を身につけよう。春の花を心行くまで楽しむのだ」。
・歴史上、多数派が正統となり少数派が異端として迫害された。その意味では「異端は正統ではない」だけの存在だ。しかし異端が正統(多数派)になれば、そこに罪が生まれる。イギリスで迫害されたピューリタンたちは自由を求めてアメリカに移住したが、そこの支配者になると、後からやってきた他教派の人々を排斥し、異教徒である先住民族を殺した。被害者は容易に加害者に変わる。信仰に対する熱心が違う人々への迫害を招くこともありうる。原理主義的信仰の危険性である。
-ヨハネ16:2-3「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかもあなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである」。
・古代の異端の本質は、今日でいう「エゴイズム」、「ニヒリズム」であろう。ペテロ書を見ると、教会の中にも虚無的な、自分勝手な生き方をする人々が現れ、悪影響を及ぼすようになったと記されている。
-第二ペテロ2:13-14「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なる時、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています」。
・ニヒリズムやエゴイズムから「解放」されるためには、自分が「神によって生かされている」との使命感が必要だ。神は私たちに隣人と共に生きることを求めておられる。
-岸本羊一「葬りを超えて」から「マザー・テレサがカルカッタの町の中で、たくさんの死にかけている人々を拾うように連れてきて、その人たちの最後を看取る時に、多くの人たちは笑みを浮かべながら『ありがとう』と言って死んでいくそうです。これは一体どういうことなのか、と考えさせられます。孤独の死ではなく、死まで一緒にいてくれる人がいることを通して、死にゆく人たちは死を克服するという体験をしているのです。私たちにとって神というのは、理屈で考えられるような彼方の存在ではありません。私たちは神の御業を通して愛に出会うのです」。