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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年7月3日祈祷会(第一テモテ3章、教会指導者のあり方)

投稿日:2019年7月3日 更新日:

2019年7月3日祈祷会(第一テモテ3章、教会指導者のあり方)

1.教会指導者のあり方

・テモテ3章は、牧師や執事のあり方について述べる。初代教会は使徒を中心とする単純な組織だったが、教会の発展につれ、役職の分化が生じてきた。
−使徒6:2-4「十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『私たちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします』」。
・代表的な役職は監督と執事である。監督=エピスコポス(エピ:上に、スコポス:見守る、上に立って見守る者)は教会の指導者、現代で言えば牧師になろう。その基本的な役割は教えることである。
−第一テモテ3:1-2「監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません」。
・監督は円満な人格と品位を保つことが望まれている。忠実な結婚生活を営み、自分の家をよく治め、金銭に執着せず、親切で思いやり深くあれと言われている。
−第一テモテ3:3-4「酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません」。
・信仰の成熟者であり、社会的にも評判の良い人であることが求められる。聖職である限り当然であろう。
−第一テモテ3:6-7「監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです」。
・述べられているのは当然の事柄だが、問題は完全な人はいないことだ。この箇所が歴史的には教役者を批判するために用いられてきた事に留意すべきだ。監督=牧師も罪を赦された罪人にすぎず、罪人である点では同じだ。
−ヤコブ3:8-10「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。
・指導者に対する寛容が求められる。牧師の最大要件は完全な人格にあることではなく、キリストに根ざした愛と召命だ。
−ヨハネ10:11-14「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」。

2.執事のあり方

・奉仕者(デイアコノス=執事)は元々、教会内の貧しい人や病人への奉仕をするものであった。元来の意味は「デイアコニア=食卓に仕える、給仕する」、彼らもまた品位を持つ者であることを求められる。
−第一テモテ3:8-9「同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません」。
・執事になる人は審査を受けるべきだと言われている。この審査とは「ある試験期間を持って任職する」意味であろう。教会の事情を知らない人、あるいは異なった福音を信奉する人が執事になれば、教会が混乱する。通常教会は入会後2年を経過した者に執事を委託する。
−第一テモテ3:10「この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい」。
・執事の妻にも節制が求められる。牧会者の勤めは妻の協力を必要とする。
−第一テモテ3:11「婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません」。
・監督も奉仕者も仕える仕事だ。人はキリストへの感謝なしに他者に仕えることはできない。神が人となって、私たちの罪のために死んで下さった。このことだけが人が人に仕えることを可能にする。著者は当時のキリスト賛歌を引用して、その信仰を告白する。
−第一テモテ3:15-16「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」。

3.初代教会における職制の進展

・イエスの宣教活動のなかで 12人の使徒や72人の弟子の派遣などがなされ、さらに女性たちを含む弟子たちが、イエスの宣教活動に随行していたことが新約聖書に見られる。キリスト昇天後の原始エルサレム教会においては、使徒たちの働きに協力する七人の奉仕者(執事の始まりと見られている)が選任された。しかし、ステパノとピリポは宣教の第一線に出て行き、他の奉仕者たちも迫害され、ユダヤとサマリアの地方へ散らされていった(使徒8:1−3)。その後1世紀において広がっていった各地の教会で預言者、教師、福音宣教者、牧者、監督、長老など、多様な職分が見られる。しかし、聖書自体において固定的な職制はまだ描き出されてはいない。
・2世紀初頭、原始教会に続く古カトリック教会で、監督のもとに長老たちの合議体がおかれるようになるが、監督を中心として長老、執事の三職位が定着して組織されるようになったのは3世紀の中頃であった。
その後4世紀の初めにローマ帝国がキリスト教を国教として公認し、ローマ・カトリック教会の成立と相まって、エピスコポス(監督)の権威的形態がとられ、教皇や司教(後にギリシャ正教と聖公会では主教)が置かれ、聖職位のヒラルキア(叙階制)が完成されるに至った。その結果、ローマ教会の職制は聖職者によって独占され、聖職者のみが、秘蹟執行の権能を有するに至った。こうしてカトリック教会の歴史の中で、一方において「キリストの全権をいただく代表者たち」(教職階級)と、他方には、「一般信徒の群れ」の区分が生じた。
・16世紀の宗教改革時に、カルヴァンの主唱によって、牧師、神学教師、長老、信徒から選ばれた執事による職制が編成され、後に教職と信徒との身分的差異を作り出すようになった。このような動向の中で、信徒と質的に区別された身分として、「教職」は「聖職」、「信徒」は俗職とみなされ、プロテスタント教会においても聖俗二元主義が成立するようになった。プロテスタントの多くの教会では、教職あるいは牧師職を、長老(プレスビュテロス)にあたるものと考えているが、 使徒権の継承、監督(エピスコポス)などの職位が特殊化され、権威主義化されていく中で、教会は次第に教職中心主義的に固定化していった。
・バプテスト教会は教派として制度化された教職制とその叙階制を、聖書において固定化されているものとして受けとめていない。聖職者と(平信徒)の区別はなく、神ご自身の選びと召し、会衆としての教会が職務としての牧師等(教役者)を立てることによってそれぞれの職分が成立し、尊重される。しかし牧師も信徒の一人であることに変わりはない。この点で、教職が身分とされている他教派との違いがある。
・ヘンドリック・クレーマーは1958年ケンブリッジ大学で講演し、その内容を「信徒の神学」として刊行した。内容を要約すると次のようになる。
−現在は教職者が教会の管理者・代弁者であり、信徒の姿は見えないが、歴史的には信徒が教会形成に重要な役割を果たしてきた。
−初代教会では、指導者の教職化・祭司化が始まり、按手を受けて礼典を執行する聖職者と礼典の受領者としての信徒の分離、聖俗区別化が進行した。宗教改革においては、「恩寵のみ、聖書のみ」を標語に、聖職者の概念は否定され、「万人祭司」が説かれたが、説教と礼典執行については教職委任の方向が残り、ルターもカルヴァンも教会の職制を定めることが必要として、教職者が支配的な地位を占め続けた。
−教会は世にあって、世に仕える。世で働くものこそ、信徒であり、教会が世に仕えるためには、信徒が不可欠であることを位置づける必要がある。それが信徒の神学である。神の啓示を私たちの思想や行動として世に示すのは、専門家の仕事ではなく、すべてのキリスト者に委ねられた仕事なのだ。
−信徒は世にあり、世のもろもろの組織・企業・職業の中にくまなく存在する。その場所こそ彼らの宣教の場所だ。「世にあるキリスト者」、それが信徒であり、教会はその信徒を助け支える役割を持つ。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく。信徒こそが世に離散した教会である。そのことを確認することこそ、信徒の神学なのである。

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