1.贖罪のもたらすもの
・旧約聖書は、「血を流すことなしに罪の赦しはない」と明言する。
-創世記9:5-6「あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。
・ゆえに旧約の律法では大祭司は年に一度至聖所に入り、罪の赦しのために雄牛や雄山羊をほふって捧げる。しかし、人の罪はそのような動物犠牲では購いきれるものではないとヘブル書は語る。
-ヘブル10:1-4「律法は年ごとに絶えず献げられる同じ生贄によって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、生贄を献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらの生贄によって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」。
・罪の赦しのために動物の生贄を捧げても何の意味もないのだ。神が生贄の肉や血を必要とされるだろうか。神が望まれるのは、あなたがあなた自身を捧げることだ。
-詩篇51:18-19「もし生贄があなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれを捧げます。しかし、神の求める生贄は打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。
・しかし、人間は罪のために自分を捧げることが出来ない。そのため、イエスが代わりにご自身を捧げられた。
-ヘブル10:5-7「それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。『あなたは、生贄や献げ物を望まず、むしろ、私のために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うための生贄を好まれませんでした。そこで、私は言いました。御覧ください。私は来ました。聖書の巻物に私について書いてあるとおり、神よ、御心を行うために』」。
・このキリストの犠牲により私たちは清められた。もう私たちは贖罪のための犠牲を捧げる必要はなくなった。
-ヘブル10:10-14「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じ生贄を、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一の生贄を献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。
・このキリストの犠牲によってあなたは罪を赦された。だから新しい契約に基づいて、新しい生き方をするのだ。
-ヘブル10:16-18「それらの日の後、私が、彼らと結ぶ契約はこれであると、主は言われる。私の律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」。
2.罪を購われた者として生きる
・イエスがご自身を捧げてくださったのだから、私たちはそれにふさわしい者として生きるべきだ。
-ヘブル10:19-25「兄弟たち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです・・・約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」。
・あなた方は、かつては迫害を受けたのにそれを耐えしのいだではないか。捕らえられ、拷問され、競技場に引き出されて見世物にもされた。それでも耐え忍んで現在まで生きてきたではないか。
-ヘブル10:32-34「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです」。
・だから与えられた確信を捨てるな、忍耐せよ。主はまもなく来られるから、その日を待ち望め。
-ヘブル10:35-39「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。『もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。私の正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者は私の心に適わない』。しかし、私たちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」。
・この試練はあなたがたを鍛えるために与えられている。この試練を通してあなたがたは純粋なものに精錬されていくのだ。
-ヘブル12:5-12「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。・・・およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。
3.ヘブル10章の黙想~贖罪思想は人を変える力を持つ
・新約聖書はキリストの十字架死を「犠牲の死」ととらえている。ヘブライ書では、旧約聖書の理解のもとにキリストの死を「犠牲の捧げもの」と理解し、パウロも同じ贖罪論の視点に立つ。
-ローマ3:25「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」。
・キリストが十字架により身を捧げられたことを通して、神との和解がなされ、この和解を通して、人の敵意が滅ぼされ、人と人との平和が成立したと聖書は語る。
-エペソ2:14-16「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。
・人間の理性では、十字架の意義は理解できない。イエスの弟子たちでさえ、わからなかった。イエスが十字架につけられた時、弟子たちは失望して「この人は救い主ではなかった」として、故郷ガリラヤに戻る。そのガリラヤでイエスが復活して現れた時、弟子たちは根底から変えられた。復活のイエスとの出会いが弟子たちを立ち上がらせ、イエスが「私たちのために死んで下さった」という信仰が彼らの生き方を変えた。
-第一ペテロ2:24-25「(イエスは)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。
・聖書学者ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という本の中で、イエスが来られて最大の変化は、「キリストにある愚者」が起こされたことだという。彼らは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分たちには何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考えた。この人たちによって福音が担われ、私たちにも継承されている。
-イエス運動の社会学から「イエスが来られても社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった。彼らが伝えたのは、『愛と和解のヴィジョン』だった」。
・私たちはキリストの手紙として、キリストを証しする者として生きたいと願う。
-第二コリント3:3「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。