1. モーセに勝るイエス
・へブル書は八十年代から九十年代前半に書かれたといわれる。ドミティアヌス帝(在位八一~九六年)のキリスト教徒迫害時代であり、キリスト教徒迫害が手紙の背景にある。著者は迫害から逃れるためにローマ公認のユダヤ教に戻ろうとする信徒のために、この手紙を書く。旧約においてはモーセがイスラエルとの契約の仲介を務めたが、新しい契約の元では、御子イエスがその頭となられた。御子こそ真の大祭司なのであり、モーセもイエスの僕に過ぎないと著者は書く。
-ヘブル3:1-3「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、私たちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました」。
・モーセが仲介した神と人との古い契約(律法)は、人の不従順により破棄された。故に神は御子イエスを遣わし、新しい契約(福音)を人と結ばれた。その契約はイエスの十字架の血による一方的な恵みであった。
-エレミヤ31:31-33「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」。
・新約の教会は、エレミヤの預言した新しい契約が、イエスにおいて成就したと信じた。モーセに与えられた古い契約は犠牲の羊の血で調印されたが、新しい契約はイエスが十字架で流された血で調印された。
-ルカ22:19-20「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた『これはあなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた『この杯はあなたがたのために流される、私の血による新しい契約である』」。
・古いイスラエルは滅び、今、新しいイスラエルである教会が生まれた。教会の頭はイエスであり、家を建てた人だ。福音を捨ててユダヤ教に戻るとは、家を建てたイエスを捨てて、家に仕えるモーセに戻る愚かな行為であると著者は語る。
-ヘブル3:4-6「どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、私たちこそ神の家なのです」。
2.安息の約束と警告
・著者は詩編95編を引用して、旧約の民の不従順を指摘する。モーセの民イスラエルは、エジプトからの救済と新しい地への約束にもかかわらず、神に不従順であったゆえに、ほとんどの者は救いからもれた。イスラエルが約束の地に入った時、約束の地に到達できたのは、従い通したヨシュアとカレブの二人だけだった。あなた方がイエスを捨てた時、あなたがたも捨てられると著者は警告する。
-ヘブル3:7-11「聖霊がこう言われる通りです。『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗した時のように、心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖は私を試み、験し、四十年の間私の業を見た。だから、私は、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。彼らはいつも心が迷っており、私の道を認めなかった。そのため、私は怒って誓った。彼らを決して私の安息にあずからせはしない』と」。
・新しいイスラエルである新約の民は、古いイスラエルのこの失敗経験をもう一度知らねばならない。罪を犯さないように、キリストに結ばれている兄弟たちと励ましあい、教会につながり続けなさい。
-ヘブル3:12-14「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。私たちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」。
・新しい契約は御子の血によって購い取られた高価な恵みだ。それをいただいた以上、あなたも血を流すまでに罪と戦う必要があるのだと著者は迫る。
-ヘブル3:16-19「いったい誰が、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったい誰に対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったい誰に対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことが私たちに分かるのです」。
・だからイエスの約束の中に留まれと著者は語る。
-ヘブル4:1-3「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、私たちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じた私たちは、この安息にあずかることができるのです」。
3.へブル書3章の黙想(律法から福音へ)
・イスラエルの律法は元来、神と民との契約として結ばれた条文である。エジプトから救い出された民はシナイ山でモーセの仲介により十戒を与えられた。神はイスラエルの民に言われた「私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19:5-6)。万物を創り、統治される神の意思を示すものとして、神が呼びかけられ、民が応答して契約が結ばれ、その契約の条文が律法である。律法は、イスラエルを神の民として生活を秩序づけ、神の共同体として繁栄させるものだった。
・しかし前587年、イスラエルはバビロニヤによって滅ぼされ、契約共同体は滅び、律法はその前提たる共同体の崩壊により、新しい局面を迎える。国の滅亡、バビロン捕囚を境に、律法は神と民の契約から、安息日・割礼・食物規定等の遵守によるイスラエル民族のアイデンティティを支えるものとなり、個人化していく。契約という前提から分離した律法は、やがて律法主義を生みだす。律法学者たちは、本来祭司のみに要求される厳格な祭儀的清浄を一般人にも要求し、ラビたちの律法解釈を口伝律法として成文律法と同じく権威を認め、その遵守を求めた。その結果、「食事前に手を洗う」とか、「安息日に麦の穂を摘む」とかの些細な行為さえも、律法に反するものとして咎められるようになっていった。
・イエスはこの形骸化した律法遵守の有様を強く批判された。形だけ律法を守る律法学者やパリサイ人を、「自分の義を見られるために人前で行う」(6:1)、「人に見せるために祈る(6:5)と、その偽善を批判された。イエスが教えられたのは本来の律法の持っている意味だった。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(5:21-22)。隣人を愛することこそ、神が求めておられることであり、隣人を愛するとは隣人を憎まないことなのだと教えられた。旧約の律法の新しい解釈であり、血が通わなくなって形骸化した律法に新しい命を吹き込む教えだった。
・「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、等は代表的な律法の規定だが、この規定は日本語では禁止命令だが、原語のヘブル語では異なる。ヘブル語を直訳すると「姦淫しないであろう、殺さないであろう、盗まないであろう、むさぼらないであろう」とある。神の恵みの共同体に入れられた者が殺しあうことはないし、姦淫することはありえない。何故ならば神は全ての人を愛されており、お互いは兄弟姉妹だからだ。神に愛された者は力の限りに神を愛し、神を愛する者は隣人に悪を行わない。だから盗むことも殺すこともしない。本来の律法とはこのようなものである。
・イエスは自らの死を通して、私たちを神の国の共同体に入れて下さった、私たちを新しい契約の民にして下さった、だから私たちはイエスに従っていく。その時、罪多き存在が清められ、変えられていく。その時、とても守れない、不可能だと思われたイエスの戒めが福音になっていく。何故なら、「愛は隣人に悪を行わない」からだ。パウロは語る「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:8-10)。