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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年1月9日祈祷会(ガラテヤ6章、重荷を担い合いなさい)

投稿日:2019年1月9日 更新日:

2019年1月9日祈祷会(ガラテヤ6章、重荷を担い合いなさい)

1.指導者の重荷を担い合いなさい

・ガラテヤ教会の指導者たちは、自分たちは「霊に導かれている」と誇りながら、実際は、教会を間違った方向に導こうとしていた。そして教会内の反対者と反目しあっていた。
−ガラテヤ5:15「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」。
・指導者が間違った方向に行こうとしている時、教会員は彼らを正す義務がある。パウロは、「柔和な心で彼らを正しい道に立ち返らせなさい、裁いてはいけない、互いに重荷を担いなさい」と勧める。
−ガラテヤ6:1-2「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。
・私たちは洗礼を受けてキリスト者になるが、罪を犯し続ける。では洗礼を受けて何が変わるのか、それは「自分が罪を犯し続ける存在であり、それなのにキリストに赦されて現在を生かされている」ことを知ることだ。キリスト者は自分が罪人であることを知るゆえに、相手の罪を責めなくなり、そこに柔和が生まれ、この柔和が交わりを生む。「重荷を担い合う」とは、肉の働きから来る罪との戦いだ。誰かが罪を犯して苦しんでいるのならば、一緒に苦しみなさい。間違っても、「自分はそんな罪は犯さない、罪を犯す人は弱いのだと思い上がってはいけない」とパウロは戒める。
−ガラテヤ6:3-5「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです」。
・私たちの行為は、最終的に神の御前で審判を受ける。その時、「あの人に比べて悪いことはしていない」とか、「世間の人は賞賛してくれた」等は何の意味も持たない。「神の前に立って恥ずかしくないように、今現在を生きなさい」とパウロは語る。
−ガラテヤ6:6-7「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい・・・神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」。
・人は自分の蒔いたものを刈り取る。善であれ悪であれ、行いに応じて報いを受ける。良いことをすれば神は報いてくださる。善を行うには忍耐が必要だが、時が来れば必ず与えられる。信じて行いなさい。
−ガラテヤ6:8-10「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」。

2.割礼を受けることは十字架を否定することだ。

・あなたがたに割礼を勧める者は、ユダヤ教徒やローマ帝国からの迫害を免れるために、そうしようとしている(当時の教会は地域のユダヤ人から迫害され、帝国からは非公認宗教者として迫害されていた)。
−ガラテヤ6:12-13「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」。
・パウロの反対者たちは、自分たちの行為がキリストの福音を踏みにじっているとは思いもしなかった。しかし迫害を避けるためのユダヤ教や帝国との妥協が、肉の思いとなり、十字架を否定する行為になる。
−ガラテヤ5:11「この私が、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」。
・私たちは割礼のような外面的な行為で救われるのではなく、十字架で救われるのだ。キリストの十字架によって私たちも共に死んだのだ。割礼があるかどうかでなく、死んで新しくされたかが大事なのだ。
−ガラテヤ6:14-15「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。
・私が迫害によって受けた傷こそ、イエスの焼印だ。イエスの焼印を身にまとう者がキリストに背いて、ユダヤ教や帝国と妥協することは出来ない。あなたがたもわかってほしい。
−ガラテヤ6:17「だれも私を煩わさないでほしい。私は、イエスの焼き印を身に受けているのです。
・もし人が神からの招きを受け入れるなら、その人の生き方は根本から変えられる。新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、世とは異なる価値観に生かされる。私たちも洗礼という形で、「イエスの焼き印」を身に帯びる。それはイエスと共に十字架に死に、イエスと共に新しい命を生きるという「焼き印」であり、その焼き印を受けて人は教会に加わる。教会は地上にあるゆえに問題を抱えた群れではあるが、それでも地上に開かれた神の国の入り口なのだ。

3.ガラテヤ6章の黙想

・パウロは語る「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(6:12)。ここでパウロは二つの批判をしている。一つは、割礼を強制しようとしている人々は、他の人から良く思われようとしているのだとの非難だ。彼らは「あなた方の救いのためではなく、自分たちの改宗運動の成功という功績を求めてそうしているのだ」と。現代の教会においても、伝道の実績をバプテスマ者の数で計る傾向がある。その時、功績をあせって、まだバプテスマを受ける準備の出来ていない人に無理にバプテスマを受けさせるようになる。そのようなバプテスマは、神の業ではなく人の業に、教会の業ではなくビジネスになっていく。パウロは反対者たちの運動の背後に、功績をあせる彼らの気持ちを見ている。
・第二に彼らは異邦人改宗者に割礼を強制することによって、キリストの十字架ゆえに受ける迫害を回避しようとしている。当時の教会に対するユダヤ教からの迫害は激しかった。特にユダヤ教の牙城であるエルサレムではそうだった。キリスト者は背教者として、ユダヤ人社会から村八分にされた。そこでエルサレム教会はユダヤ教徒が最も大切にする割礼を受けさせることによって、ユダヤ教と妥協しようとした。「生まれたばかりの教会は厳しい環境の中にあり、その中でどのようにしてこの教会を守り、広めていくかを考えると、無駄な軋轢は避けたほうが良い」。割礼は聖書に定めてある契約のしるしだ。彼らは反論した「神はユダヤ人を選びの民とされ、しるしとして割礼を受けよと命じられた。私たちは良きユダヤ人であってこそ、良きキリスト者になれる。割礼を受けることが何故反キリストになるのか」。
・同じ事を戦時中の日本の教会も言った「良き日本人であることが良きキリスト者の基本だ。日本人として天皇陛下を敬うのは当然であり、国が東亜共栄圏の理想を推し進めているのであれば、教会も協力すべきだ」。戦時中の教会は、敵性宗教を信じる非国民として社会から排斥されていた。教会は迫害を回避するために、戦闘機を奉納したり、韓国や中国の反日キリスト者を説得するために宣教師の派遣も行った。厳しい環境の中で教会を守りたいという行為が、戦争協力になり、「殺すな」という戒めを守ることの出来ない教会になっていった。同じことが現在のアメリカでも起きている。「国がテロとの戦いを推し進めている以上、教会も協力すべきだ」。アメリカの教会の多くはイラク戦争やアフガン戦争の勝利を祈っている。何がいけないのか。彼らはキリスト者である前にアメリカ人であると言っている。キリスト者であることより、自分の民族を前に出す。そこに誤りがある。何故なら、私たちの国籍は天の国だからだ。
・パウロは語る「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(6:14)。パウロは十字架を復活の光の中で見ている。キリストは弱さのゆえに十字架にかけられたが、神はこのキリストを復活させて下さった。十字架の苦難があるゆえに復活の栄光がある、受けるべき苦難を受けることによって、神は私たちに栄光を下さる。目先の苦難、ユダヤ人からの迫害や同胞からの疎外を避けようとして、するべきでないことをした時、それは神の福音とは異なる福音、人間の教えになってしまう。そして人間の教えには命を救う力はない。
−ピリピ1:29-30「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」。

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