2019年3月13日祈祷会(フィリピ3章、キリストに生きる)
1.自分の義を捨てよ
・フィリピ書1〜2章はパウロの感謝とフィリピの信徒を気遣う愛情に満ちた手紙だ。2章の終わり、3章の始めでパウロは書く「私の兄弟たちよ。主にあって喜びなさい」(3:1)。「主にあって喜びなさい」、ピリピ書を貫くパウロの基本使信だ。その穏やかな感謝の手紙が、3章2節から突然激しい語調になる。
−フィリピ3:2「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」。
・当時のエルサレム教会は、「洗礼を受けただけでは救われない。旧約聖書に定められたように、割礼を受け、律法を守らないといけない」と指導して、伝道者を各地の教会に派遣し、フィリピ教会にも伝道者たちが訪れ、教会の中に混乱が生じていた。「割礼を受けなければ救われないとしたら、キリストは何のために死なれたのか。割礼を強制する彼らはキリストの十字架を無益なものにしている。だから彼らはよこしまな働き手なのだ」、とパウロは巡回伝道者を批判する。
−フィリピ3:3「彼らではなく、私たちこそ真の割礼を受けた者です。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」。
・パウロもかつては律法による救い求め、そのために努力し、そのような自分を誇った時もあった。
−フィリピ3:5-6「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。
・しかし、キリストに出会って、誇りをみな捨てた。律法が人を救う力を持たない事を知ったからだ。
−フィリピ3:7-8「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています」。
・パウロはキリストに出会って、「ユダヤ教の教師」から「キリスト教の伝道者」になった。そのことによって彼は教師という職を失い、ユダヤ教側から「裏切り者」として、命を狙われるようになる。パウロはすべてを失くしたが、キリストを得た。キリストに出会って命を見出した。命を見出した人はこれまで大事だと思っていたものさえ捨てる。
−フィリピ3:8-9「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」。
・律法による義を求める人は自分だけの救いを求めている。それは自己の義を捨てて十字架にかかって下さったキリストとは違う生き方だ。キリストに倣うのであれば、その苦しみをも喜ぶ。
−フィリピ3:10-11「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。
2.完成を目指して
・私たちは既にキリストに出会った。キリストに捕らえられた。だからキリストを追い求めていく。
−フィリピ3:12-14「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
・「私に倣え、私が弱さの中でキリストを目指して走っている姿を見よ」とパウロは語る。
−フィリピ3:17「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」。
・律法による義を求める者は、キリストの十字架を排除している。彼らはもはやキリスト者ではない。
−フィリピ3:18-19「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。
・私たちの本籍は天にある。地上で救いを完成する必要はない。キリストが来て下さるのを待てばよい。
−ピリピ3:20-21「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。
3.フィリピ3章の黙想
・パウロは語る「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(3:20-21)。ここに「永遠の命を求める」のか、「現世での救いを求める」のか、信仰の分かれ目がある。多くの人は現世での救いを求める。
・島田裕巳は「日本の10大新宗教」の中で語る。
−「現代の新宗教である創価学会はおよそ1,000万人の信徒を持ち、立正佼成会は300万人、霊友会も300万人の信徒がいる。他方、日本で150年の宣教の歴史を持つキリスト教人口は100万人しかいない。人々は何故、新宗教と呼ばれるこれらの教えに惹かれるのか。大教団に成長した新宗教のほとんどは『日蓮系・法華系』の教団だ。浄土信仰を説く既成仏教に飽き足らない人々が、現世の救いを強調する法華信仰に惹かれる。「南無妙法蓮華経」を唱えれば救われる、豊かな生活が送れるという教えが人々を捕らえている」。
・これは「律法を守れば救われる、善行を積めば幸せになれる」とするユダヤ主義者の考え方と共通している。しかし、パウロはこのような考え方を否定する。パウロは言う「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」。フィリピはローマの植民都市だった。ローマから遠く離れていたが、市民はローマ市民権を与えられ、ローマに属する者とされていた。フィリピの市民がローマ市民であるように、私たちも地上に暮らしていても天から派遣されている「神の国の市民」なのだとパウロは語る。
・「神の国の市民」であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということだ。私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれないが、神が私たちを見捨てられることは決してない。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖って下さった方だからだ。キリストは私たちの重荷を共に負って下さる、キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも喜ぶことが出来る。
−フィリピ4:4-6「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うことはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。
・私たちの毎日は常に喜べる状況ではなく、挫折も失意も仲違いもある。しかし、その中で喜んで行く。人生は短く、その終わりは見えている。だから、「不和の人がいれば、一刻も早く和解しなさい。相手が許さなくともあなたは許しなさい」とパウロは訴える。マザーテレサも語る「人との関係の断絶は神との関係の断絶なのだ。だから神と和解している人は人と和解せよ、相手が赦さなくともあなたは赦せ」と。
−マザーテレサ・あなたの最良のものを「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい・・・助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい・・・最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」。