2019年10月9日祈祷会(ヘブル書2章、人となられた神から離れるな)

投稿日:2019年10月8日 更新日:

1.福音から律法に戻ろうとする人々へ

 

・ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々の中には、迫害の激しさの中でユダヤ教に戻ろうとする人々がいた。著者はその人々に、「あなたがたは律法では救われないことを知ったから福音を求めたのではないか」と問いかける。

-ヘブル2:1-3「私たちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、まして私たちは、これほど大きな救いに対して無頓着でいて、どうして罰を逃れることができましょう」。

・「天使たちを通して語られた言葉」、律法の言葉である。しかし、律法が与えられてわかったことは、私たちは律法を守ることが出来ず、律法によっては滅びしか来ないという事実だ。

-ガラテヤ3:19「律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです」。

・私たちの中には善なるものは何も無い。私たちは罪の行為しかできない。そのことを私たちは律法を通して知った。

-ローマ7:18-23「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです・・・『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしています」。

・だから神はキリストを遣わされた。「私たちはキリストから福音を聞き、信じた。そのことを忘れたのか」と著者は語る。

-ヘブル2:3-4「救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によって私たちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」。

 

2.御子を信じることによってあなた方は死から命に移ったのだ

 

・神は人間を、万物を治めるものとして、ご自身の代理人として造られた。

-ヘブル2:5-8「神は、私たちが語っている、来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある個所で、次のようにはっきり証しされています。『あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました』」。

・著者は詩編8:6-9を引用しながら、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」と理解する。人は自らが神になろうとして、罪の縄目の中に追い込まれた。レメクは罪に落ちた人間の原型(カインの末裔=神を見失った放浪者)だ。

-創世記4:23-24「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」。

・罪の中にある人間を救うために神は御子を遣わされた。それは御子を通して、私たちを罪から自由にするためであった。律法からの自由は御子の十字架死を通して与えられた。私たちのいただいた自由は、御子の死により贖われたのだ。

-ヘブル2:9-10「『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」。

・この贖罪論はパウロと同じである。初代教会の一致した信仰であったのだろう。

-ガラテヤ4:4-5「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした」。

・御子の十字架を通して私たちは神の子とされる。「死から命」へ移ることを許された。

-ヘブル2:14-15「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」。

・御子の死と復活を通して、死は滅ぼされた。今や私たちにとって死は滅びではない。新しい生への通過点に過ぎない。

-ヨハネ11:25「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる』」。

・人は肉としては死ぬ。しかし復活する。この希望を持つことが許された時、死は呪いから平安になる。

-黙示録14:13「私は天からこう告げる声を聞いた『書き記せ。今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いであると』。“霊”も言う『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」。

・キリストは私たちのために苦しまれた。だから今、迫害で苦しんでいる兄弟たちよ。苦しみを耐えなさい。主はあなたの苦しみを知っておられる。

-ヘブル2:17-18「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。

 

3.へブル書と贖罪論

 

・へブル書の信仰の中核は、イエスの犠牲死による贖い=贖罪信仰である。

-ヘブル9:11-12「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。

・パウロもこの贖罪信仰に立つ。

-ローマ3:25「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」。

・福音書記者も贖罪信仰に立つ。

-マルコ10:45「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

・イエスご自身は自らの死の必然性、その意義、結果を語られなかった。しかし弟子たちはイエスの死後に、イエスの死の必然性と意義を語り始め、これが贖罪論、救済論、和解論の成立をもたらした。イエスの宣教内容は本来イエスの死を必要とせぬものであり、イエスもその死以前に人々が彼の告知を理解して悔い改めることを期待したと思われる 。イエスはゲッセマネでは「この杯を私から取り除いてください」と祈られ(マルコ14:36)、十字架上では「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた(同15:34)。

・イエスは神の見捨ての中で死んで行かれた。しかし父なる神はイエスを見捨てられなかった。神はイエスを死から蘇らせ、復活のイエスに出会った弟子たちは、イエスを神の子、キリストとして拝し、イエスの死と復活を通して自分たちの罪が赦されたと理解した。聖書学者の大貫隆氏は、弟子たちがイザヤ53章を通して、イエスの十字架死の意味を知ったと述べる。

-大貫隆「イエスという経験」から「イエス処刑後に残された者たちは必死でイエスの残酷な刑死の意味を問い続けていたに違いない。その導きの糸になり得たのは旧約聖書であった。聖書の光を照らされて、今や謎と見えたイエスの刑死が、実は神の永遠の救済計画の中に初めから含まれ、聖書で預言されていた出来事として了解し直されるのである。彼らはイザヤ53章11節(「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」)を、イエスの刑死をあらかじめ指し示していた預言として読み直し、イエスの死を贖罪死として受け取り直した」。

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