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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年1月17日祈祷会(ロ−マの信徒への手紙8:1-17、霊による命)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.肉に従って歩む人生と霊に従って歩む人生

・パウロは、ロ−マ8章を「従って」という接続詞で語り始め、7章からのテ−マを語り継いでいる。パウロは、「律法は正しく良いものであると認識しながらも、行いたいと願う自分と、行いえず否定してしまう葛藤」に悩み続けている。ロ−マ書が現代人にもインパクトを持つのは、その葛藤を現代人も共有しているからである。
―ロ−マ8:1-2「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」
・人間の本性は他者と競って、自分の生存を確保することだ。従って、必然的に争いが生じ、その争いが様々な罪を生んでいた。かつての私たちは「罪と死の法則下」にあった。
−エペソ2:1-3「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいた。私たちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者だった」。
・この葛藤は、信仰を持てば全てが霧散解消するというご利益信仰では、理解できない。パウロは自分自身の中の霊と肉の葛藤に打ちのめされている。
―ロ−マ8:3「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを神はして下さったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」
・イエスは故郷ナザレで伝道を始められた時、「人々は罪のために死の縄目の中にいる、その人々を解放し、自由を与えるために、私は来た」と宣言された。キリストが来て、死んで下さった事により、私たちはこの地獄から解放された。
−ルカ 4:18-19「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・律法が肉の弱さのため越えられなかったことが可能になったのは、「人の罪を取り除く御子イエス・キリストを、神が世に遣わしてくださったからだ」とパウロは語る。
−ロ−マ8:4-6「それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」

2.肉の思いは死であり、霊の思いは命である

・肉に従う者は肉に属することを思い、霊に従う者は霊に属することを思う。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である。
−ロ−マ8:7-9「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者が神に喜ばれるはずはありません。神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」
・神の霊に従うか、肉の欲に従うかにより、人は明瞭に分かたれる。それを分かつ鍵となるのが、キリストがその人の内に居るか居ないか、つまり信仰があるかないかである。
−ロ−マ8:10「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」
・肉の思いとは「自己を中心に考える思い」だ。創世記のアダムは、エバが造られた時、感激して叫ぶ「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」(創世記2:23)。しかしエバが罪を犯し、その罪により自分が責められた時、アダムは「あなたが与えたあの女が悪い」と弁解する。「骨の骨、肉の肉」とまで愛しても、具合が悪くなると捨てる、ここに人間の本質、罪の姿がある。ボスニア内戦が何故起こったのか。ボスニアではセルビア人もボスニア人も、キリスト教徒もイスラム教徒も、隣人として共に暮らしていたが、ある日、誰かが「セルビア人こそ国の誇り、イスラム教徒は邪教徒だ」と叫び始めると、隣人同士が殺し合いを始める。まさに肉の思いは罪を導き、罪は人を死に至らせる。

3.霊の導きに従って歩む

・「イエス・キリストを死者の中から復活させた方の霊、神の霊があなたがたの内に居られるなら、つまり信仰があるならば、その霊により、たとえ肉体が滅んでも、神は生かしてくださる」とパウロは語る。
−ロ−マ8:11「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるであろう。」
・私たちは、もはや肉の奴隷ではない。だから霊にふさわしく生きる。それは貪りをやめ、神の被造物としての本来の姿にしていただくことだ。
−ロ−マ8:12-14「それで兄弟たち、私たちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは、生きます。神は霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」
・私たちは、人を奴隷として恐怖に陥れる悪霊ではなく、愛と平和の神の霊を受けた。この霊に向かって、私たちは尊敬と親愛をもって、「父よ」と祈る。私たちが「父よ」と祈るのは、私たちが神の子とされたからである。
−ロ−マ8:15―16「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッパ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一諸になって証ししてくださいます。」
・私たちが神の子供であるとしたら、相続人でもある。それはイエス・キリストと共同の相続人でもある。なぜなら、キリストと共に苦しむことにより、苦難と共に栄光をも分かち受けるからだ。
−ロ−マ8:17「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」
・パウロは「あなた方は罪の奴隷であったが、今は神の子とされた」と語る。奴隷は主人のために働き、その価値は働きによって計られる。良い奴隷とは良く働く者であり、働けなくなった奴隷は価値を失い、捨てられる。ヒトラー時代のドイツでは、心身障害者は「生きるに値しない生命」として、安楽死を強要された。この状況は現代日本にもある。仕事の効率の悪い人は会社からリストラの対象として捨てられる。体力の落ちたスポーツ選手は引退を迫られる。競争社会においては、人は人格ではなく、価値で評価され、価値の無い者は捨てられる。しかし「あなた方はこの奴隷の境遇から救われた」とパウロは語る。
・奴隷であった私たちを、神は「子」としてくださった。子の存在価値は、「子であるという存在そのもの」にある。働けなくなっても、役に立たなくなっても、子であるゆえに、親はその子を受け入れる。私たちが子にされたということは、働きや行為によってではなく、「存在によって尊ばれ、受け入れられる」ことだ。子であれば父の相続人になる、父が持っている命をいただく。死ぬべき私たちが死なない存在に変えられる。これがパウロの語る福音なのである。
・福音によって新しく生きる、「新生する」とは、「霊に従って歩む」ことだ。その霊は人の内にある霊ではなく、人の外から、神によって与えられる。9節「神の霊があなたがたの内に宿っている限りあなたがたは、肉ではなく、霊の支配下にいる」、この『宿る』という言葉は、「外から来て住む」という意味があり、神の霊、聖霊が外から来て、人の内に宿り続けることを示す。人間が自分の努力ではなく、内に宿った聖霊の支配下で生きるようになることこそ、新生なのである。

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