1.コリント教会での不品行の問題
・教会のあるコリントは人口70万人を抱える当時の世界有数の大都市であり、歓楽の都、虚栄の市と呼ばれ、あらゆる性的な不倫が蔓延していた。その中に立てられた教会もその風潮を受け、道徳問題にルーズであった。そして教会員のある者は、義母と不義の関係を持って同棲している者もいた。
−1コリント5:1「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」。
・これはユダヤ法でもローマ法でも禁じられていた近親相姦の行為であった。
−レビ記18:8「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」。
・コリント6章では「娼婦と交わることは体を汚す行為だ」とのパウロの叱責がある。コリントのアフロディア神殿には、千人近くの巫女(神殿娼婦)がいて、巡礼者に性的な享楽を奉仕していたとされる。教会の中に性的誘惑に負けて不品行(ポルネイア)に陥り、不倫や買春を行う人も出ていたのであろう。
−1コリント6:15-16「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか」。
・コリント教会の人たちは、見て見ぬ振りをしていた。罪を深刻に受け止めることを止めた時、人は危険な状態に陥る。イエスは人々の罪にために死なれたと、パウロは無関心な教会の人たちを戒める。
−1コリント5:2「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」。
・パウロは彼を教会の集まりから排除しなさいと命じる。サタンに引き渡す=教会から除名するということであろう。パウロは、教会は神の国の属し、この世はサタンの支配するところだと考えていた。教会から追放する、彼をその属するサタンの世界に送り返せとパウロは語る。それは、教会の秩序を保つと同時に、その者に悔い改めの機会を与えるためでもある。あくまでも主にある兄弟としての措置だ。
−1コリント5:4-5「私たちの主イエスの名により、私たちの主イエスの力をもって、あなたがたと私の霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。主の日に彼の霊が救われるためです」。
・不品行のパン種は、教会全体を腐らせる。わずかなパン種が全体を破壊するのだから、取り除きなさい。癌のある部位は切り取ってしまわなければいけない。
−1コリント5:6-7「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです。」
・パウロがこの手紙を書いた30年後、マタイの教会はこの問題に対して具体的な指針をまとめている。
−マタイ18:15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
2.この世の生と教会の生
・世の人は、不品行であり、強欲であり、偶像礼拝を行う。それはキリストを知らないからだ。しかし、パウロはその人たちと一切付き合うなとは言わない。
−1コリント5:9-10「以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もしそうだとしたらあなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」。
・世の人を裁くのは神に任せよ。しかし、教会内部ではそのような行為が放置されてはいけない。
−1コリント5:11-12「私が書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、私の務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」。
・不品行とは人間を動物に貶める行為であり、自分の体を汚す行為だ。
−1コリント6:18「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。
・強欲は、他者を貪る、他者を汚す罪だ。キリストは仕えることを教え、貪ることを戒められた。
−マルコ10:44-45「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
・偶像礼拝とは神を拝まずに自分を拝む行為であり、それは神を汚す罪だ。
−ピリピ3:19「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。
・様々な悪が世に満ちているが、その裁きは神に任せよ。教会外の人を裁くことはあなたの職務ではない。しかし、教会内においては、放置してはいけない。
−1コリント5:13「外部の人々は神がお裁きになります。あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
3.教会と世の関りをどう考えるか
・野村喬は「福音と世界」2009年3月号に、「伝道する心」と題して書いた「日本の社会は教会を問題にしていない。教会が何を主張し、どのような行為をしようと、社会に影響を与えることは出来ない。日本のクリスチャンは人口の1%、絶対的少数者なのだ。しかし少数者の割には、キリスト教に関する本は読まれ、音楽は聞かれている。それはミッションスクールの影響だろう。多くのミッションスクールがあり、教育分野でのキリスト教の影響は大きい」。
・「しかし、ミッションスクールで学ぶ学生のほとんどはクリスチャンにならない。礼拝出席を義務付ける学校もあるが、成功していない。学生にとってキリスト教は社会的教養であっても、自分の問題を切り開く宗教的な力ではない。結婚式の半分以上はキリスト教式だが、司式者に求められるのは神学的訓練ではなく、セレモニーの進行役だ。結婚式の大半は説教の時間はなく、あっても数分だ。人々はキリスト教の形は欲しいが、中身はいらないといっている」。
・そのような社会に私たちはイエスの派遣命令を受けて宣教に出かける。イエスは12弟子を派遣されるにあたって言われた。「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)。イエスは「私たちが派遣される場所には狼の群れがいる」と注意される。私たちの宣教の場である日本社会には、「福音に無関心」という狼がいる。どうすれば彼らの関心喚起ができるのだろうか。
・別府不老町教会牧師・齋藤真行氏は、「文化に証しするキリスト者」に可能性を求める。「社会の文化に対して、別の文化の在り方もある。キリスト教的な文化という、独自の素晴らしさがあるのだということを、文化に対して証ししていく」。世の文化に対して、「キリストにある生き方」を証しし、それに基づく文化や社会の在り方を忍耐強く提言・証言していく立場だ。
・齋藤氏は語る「この方法が、日本社会においては最も適切だと思う。文化を変革することはできなくても、少数者ながら、文化の別の在り様を模索・提案し続け、それによって「地の塩」として「キリストの香り」を日本文化に与えていくことは可能である。新約聖書においては、キリスト者が社会の人口比率の多くを占める、という事態は想定されていない。むしろ、キリストを信じる者はどの時代においても少数者であり、この小さな者がキリストの霊的影響力を保持し、社会に静かなインパクトを与え続けていく」。
・ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」の中で、イエスが来られて何が変わったのかを社会学的に分析した。彼は書く「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストが来られることによってキリストにある愚者が起こされた、それが最大の変化だとタイセンは言う。キリストにある愚者とは、「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちのことだ。聖書はこの「キリストにある愚者」を生み出していく。私たちがこの「キリストにある愚者」となった時、福音は伝わって行くとの希望を持つ。