2018年4月25日祈祷会(第一コリント1章、十字架の言葉)
1.互いに争い合うコリント教会の人々
・パウロはマケドニア伝道を終えてアテネに行くが、何の成果もなく、意気消沈してコリントに向かう。しかし、コリントではアキラとプリスキラの協力もあり、1年半の伝道を通して、教会が生まれていく。
−使徒18:1-8「パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った・・・パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた・・・会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。」
・メンバーの多くは貧しい人々であり、奴隷もその中にいたようだ(コリントの人口70万の内、50万人は奴隷だったと言われている)。メンバーの中にはユダヤ人もいたが、多くは改宗した異邦人信徒であったと思われる。パウロは教会設立後、アポロにコリント教会を委ねて、エペソ教会の開拓伝道に赴く。
−使徒18:28「アポロがアカイア州(コリント)に渡ることを望んでいた・・・アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」
・エペソにいたパウロの処にコリント教会から使いがあり、教会で分派争いが起き、混乱していることを彼は聞いた。教会はその他の懸念事項についてもパウロに質問してきた。パウロはそれらへの回答として、この手紙を書いている。
−1コリント1:11-12「あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです」。
・人は集まると必ず党派を形成する。パウロの導きで洗礼を受けた人はパウロ派になり、アポロの説教で回心した人はアポロ派になった。またエレサレム教会からの巡回伝道者に従うユダヤ人たちはペテロ派になり、聖霊を強調する人々は、自分たちを「キリスト派」と称した。教会の中でお互いが勢力争いをして、キリストの福音を忘れていた。パウロは「教会の主はキリストではないか」と問う。
−1コリント1:13「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」
・「教会の頭はキリストであり、牧師はキリストに仕える僕に過ぎないのに、何故、キリストの僕である牧師が、主であるキリストより重視されるのか」とパウロは問いかける。
−1コリント1:17「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」。
・コリント教会は、教会としては成り立ちえないほどに欠点を多く持つ教会であった。しかしパウロは争いを繰り返すコリント教会を「神の教会」と呼び、教会員を「召されて聖なる者となった」と呼ぶ。正しいから「聖徒」なのではなく、召された故に「聖徒」なのである。
−1コリント1:1-2「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります。」
2.十字架の愚かさこそ神の力である
・パウロは、教会の人々に、「あなたがたが分派争いを行うのは、十字架の意味を理解していないからだ」と語る。この問題は信仰の本質にかかわるとパウロは認識している。
−1コリント1:18「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」。
・十字架の言葉とは、「神が人間を救うために十字架にかかり、無残にも死なれた、そのことに意味を見出すか」という問いかけだ。それは人間の知恵(理解)を超える神の知恵だ。
−1コリント1:21「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」
・十字架はユダヤ人にとっては「呪われたもの」だ。「ユダヤ人はしるしを求めた」とあるように、彼らは目に見える証拠を見せよと迫った。ユダヤ人が求めたメシア(救い主)は、異邦人占領者ローマを聖地から追い出す力を持つ栄光のメシアであり、十字架で死ぬ弱いメシアではない。
−マルコ15:32「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう。」
・ギリシア人は「知恵を探す」。ギリシア人にとって、神とは理性に満ちた存在であり、十字架で死ぬ愚かな神ではない。ましてや死人の復活など彼らには信じられない。パウロはアテネでの宣教に失敗した。
−使徒言行録17:32-33「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。」
・アテネでの失敗から立ち上がったパウロは、コリントの人々に語る「十字架はユダヤ人には呪いであり、ギリシア人には愚かなものであるが、信じる者には神の力である」と。
−1コリント1:22-25「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
・十字架刑は残酷な拷問と処刑であり、おぞましいものだ。しかし、神はイエスをこの十字架で死なしめられ、そのことを通して人間の有様を見えるものにされた。人間は有史以来戦争を続けてきた。戦争、殺し合いこそが人間の本質であり、人間は他者を傷つけ、殺してまで自分の生存を守ろうとする。「歯向かう者は殺す」を文字通りに提示するのがキリストの十字架だ。パウロが出会ったイエスは「十字架につけられたままの」、「惨めさを担い続けた」方であった。
−ガラテヤ3:1「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられたままの姿ではっきり示されたではないか。」
3.誇るものは主を誇れ
・コリント教会のメンバーになった人たちには、下層階級の人々が多かったとみられる。
−1コリント1:26「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」
・当然、奴隷の信徒も多かった。当時の奴隷は「生きた道具」であり、主人は役に立たなくなった奴隷を棄てることも、殺すこともでき、奴隷の子供は主人の財産になった。その中で多くの奴隷たちが個人の人格を認める福音に惹かれて行った。インドでは人口の3%、3000万人がクリスチャンであるが、多くは指定カースト(不可触民)の人々だと言われている。コリントと同じ状況だ。
−ガラテヤ3:28「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
・神は「何ものでもない者」を選ばれた。それは人の知恵ではなく、神の知恵を示すためだ。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のである。パウロは自らの知恵を誇る人たちに警告する。
−1コリント1:27-29「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」
・宣教者も人間だから多くの破れを抱えている。その宣教者を見るから、「私はパウロへ」「私はアポロへ」と争う。「あなたのために死なれたキリストだけを見よ」とパウロは語る。
−1コリント1:30-31「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」
・玉川キリスト教会・福井誠牧師はコリント1章を次のように読む。
−聖書一日一章から「人間は、元々裸である。しかし、成長の過程で、学歴、仕事、地位、伴侶、財産など様々なものを身に着け、そんな着膨れした自分を自分と思い、他人も自分もそれらの付属物を通して見るようになっている。しかし、本当のところ自分は裸なのだ、全ては与えられたものに過ぎず、弱さと罪性を抱えながら生きている者のだ、という現実を受け入れ、お互いに理解し、受け入れ、支えあう気持ちを大事にすべきなのである。」