1.キリストの手紙
・パウロは『私たちは神の言葉を売り物にしない』と述べた。この言葉を、コリントの人々は「パウロがまた自己推薦をしている」ととらえるかも知れないとパウロは懸念する。
−第二コリント2:17-3:1「私たちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。私たちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」。
・エルサレム教会の推薦状を持った教師たちがコリントに来て、「異なる福音」、律法による救いを唱え、教会を混乱させていた。パウロは何の推薦状も持っていないが、本当の推薦状は神からの推薦状だとパウロは反撃する。
−第二コリント10:17-18「誇る者は主を誇れ。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」。
・主からいただいた推薦状、それはあなた方自身だとパウロは語る。あなた方は私たちの宣教を受けて悔い改めた。あなた方こそ、私たちの推薦状であり、キリストの手紙だとパウロはいう。牧会者にとって信徒こそ、神からの推薦状だ。
−第二コリント3:2-3「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。
・「石の板に書かれた手紙」とは石板に書かれた律法(十戒)を指す。律法は「人を愛せ」と教えるが、私たちは本当の意味で人を愛せない。私たちの愛はエゴ(自己愛、損得勘定)を超えることが出来ないからだ。文字で書かれた契約、律法は私たちの限界を示し、私たちの罪を暴き、私たちを死に至らせるものだとパウロは語る。コリント教会はユダヤ主義者の影響を受けて、割礼を受けなければ救われないとか、戒めを守らなければいけないとか、キリストが教えられたことと違う方向に行き始めた。それをパウロは「異なったイエス、違った福音」と述べている。
−第二コリント11:3-4「エバが蛇の悪巧みで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来て私たちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、我慢しているからです」。
・「違った福音」のどこが悪いのか。それは神の教えではなく、人の教えだからだ。人が求めるのは幸福だ。人は、病気や老いや貧しさから解放されて幸福になりたいと願っている。その願いに応えて、「割礼を受ければ救われる、戒めを守れば祝福される」という幸福宗教の教えが出てくる。幸福宗教は救いの決定権を人間が持つ。「割礼を受ければ救われる」、「戒めを守れば救われる」のであれば、神は不要だ。しかし、人には命の決定権はなく、そこに救いはない。真の福音とは、神が私たちを愛し、救ってくださる事を信じていくことだ。イエスが伝えられた良い知らせ、福音とはそれだ。その「正しい道に帰れ」とパウロは呼びかけている。現代アメリカの福音主義も、「違った福音」と思える。
−森本あんり/宗教国家アメリカの不思議な論理から「アメリカにおけるキリスト教のキーワードは、“富と成功”である。彼らは言う『自分は成功した。大金持ちになった。それは人びとが自分を認めてくれただけではなく、神もまた自分を認めてくれたからだ。神が祝福してくれているのだから自分は正しいのだ』」。
・「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされている」とパウロは語る。その言葉は、教会に集められた私たち一人一人も、キリストの手紙であることを示している。世の人々は聖書を読んでキリスト者になるのではなく、「教会に集うキリスト者を読んで」、福音が何かを知る。「この人は何故、困難の中でも希望を失わないのだろうか」、「この人は何故損をしてまで人のことを心配するのだろうか」、そしてその人を動かしているのが「キリストに生かされている喜び」であることを知った時、人は聖書を読み始める。
−ヘンドリック・クレーマー「教会は世にあって、世に仕える。その世で働くものこそ、信徒であり、教会が世に仕えるためには、信徒が不可欠である。日本の伝道は牧師がする直接伝道より、信徒の生活による間接伝道が必要だ。イエスは『あなた方の光を人々の前に輝かせ』と言われた(マタイ5:16)。『自分を愛するように隣人を愛しなさい』と言われた。御言葉を日々実行しなさい。それが伝道である。日本の教会は建物と牧師だけの教会である。信徒は死んでいる。その結果、教会は日本社会の中から浮き上がっている」。
2.文字の契約と霊の契約
・パウロは「文字は殺すが、霊は生かす」と語る。「文字は殺す」、人は律法を守ることによっては救われないゆえにこそキリストが来られ、十字架の血を通して新しい契約、霊で書かれた契約が与えられた。「霊は生かす」とはその意味だ。私たちは古い契約(律法)ではなく、新しい契約(福音)を伝えた、「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さった」とパウロは語る。
−第二コリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。
・律法なしに人は罪を知ることは出来ず、罪の自覚なしには悔い改めは生じず、悔い改めなしに罪の赦しもない。律法は大事である。イエスもご自身を律法の破壊者ではなく、完成者だといわれた。
−マタイ5:17-18「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。
・古い契約の上に新しい契約が書かれた。古い契約に仕えたモーセの顔さえ輝いていたのなら、新しい契約に使える私たちの顔はもっと輝いているはずではないかとパウロは語る(参照:出エジプト記34:29-35)。
−第二コリント3:7-11「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています・・・消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです」。
・モーセが自分の顔に覆いをかけたのは消えいく栄光を見られたくないためだった。しかし、もう覆いは必要ない。キリストという消えない栄光が現されたからだ。
−第二コリント3:13-16「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。・・・それはキリストにおいて取り除かれるものだからです・・・主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」。
・私たちは割礼を受け、戒めを守るから救われるのではなく、救われたから割礼を受け、戒めを守る。その時、十字架に従う力を神は私たちに与えて下さる。私たちは強制されてではなく、喜んで戒め=神の言葉を守っていく。
−第二コリント3:18「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。
・現代の私たちは利害損得(お金)を宗教としている。しかし聖書は利害を超えるもの、神を愛するように隣人を愛することを求める。私たちは神の国をこの地上に広めるためにここにいる。イエスは言われた「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(ルカ11:20)。私たちは死んでから天国に入るために教会に集められたのではなく、救われた者としてどう生きるかを知るために集められ、そして知った者は神の国の伝道者として派遣されていく。「神の指で悪霊を追い出せ」とは、「キリストの手紙としてあなた自身が生きよ」との意味である。