1.第二コリント書の複雑な構造について
・パウロは第一コリント16章で、「五旬節過ぎにはあなた方のところに行きたい」との計画を表明した(16:8-9)。しかしパウロの訪問計画を狂わせる二つの出来事が起こる。一つはコリント教会内でパウロに対する反感が募り、パウロの来訪を喜ばなくなったこと。もう一つはパウロがエペソで逮捕され、投獄される出来事が起きたことである。予想外の出来事の発生により、パウロはコリントに行けなくなり、代わりに何通かの手紙を書く。その複数の手紙が編集されて完成したものが第二コリント書と言われている。
・パウロはアジア州にガラテヤ教会を設立し、その後マケドニアやテサロニケで伝道し、さらにアカイア州コリントに教会を生み出した。紀元50年頃である。コリント伝道の後、パウロはアジア州のエペソに行き、開拓伝道を始める。第一の手紙を書いたのはこのエペソからだ(紀元54年頃)。その中でパウロは、「エルサレム教会への献金を募るため、近いうちにコリントを訪問したい」と書く(16:1-4)。ところがこの募金活動がやがてパウロとコリント教会の間を引き裂くような問題を引き起こす。コリント教会内でパウロの使徒資格を問題にする人々が現れ、エルサレム教会への募金もパウロが私腹を肥やすために行っているとする中傷さえ出て来た。それを聞いたパウロは、教会の誤解を解くために、急遽「弁明の手紙」といわれるものをコリントに送る(第二コリント2:14-7:4の箇所と推測される)。しかし事態は好転せず、パウロはコリントを直接訪問するが、コリントの人々はパウロを侮辱して追い返すという信じられない行動を起こした。それに対してパウロが書いたのが「涙の手紙」(第二コリント10-13章)で、この手紙を見て、コリントの人々は自分たちの無礼を悔い、パウロに謝罪する。
・それを受けて書かれたのが今日読む「和解の手紙」(第二コリント1:1-2:13)だ。第二コリント書はパウロの書いた複数の手紙が編集されて一つの手紙になっており、必ずしも年代順に記されているわけではない。そのため、青野太潮訳岩波聖書では、最初に2〜7章が記され、次に10〜13章が、三番目に1〜2章が記されるという変則配列になっている。しかし私たちは年代順ではなく、現在の聖書配列に従ってこの書簡を読んでいくが、第二コリント1章は「和解の手紙」であることを念頭において読んでいく。
2.不従順な教会であっても
・コリントはパウロが設立し、心血を注いで牧会した教会であったが、パウロから背き、福音から離れようとしていた。パウロはコリントを訪問したが、激しい中傷を受け、悲嘆の中にエペソに帰った。その後、弟子テトスに「涙の手紙」と呼ばれる手紙を持たせてコリントへ送り、コリント教会の反省を求めた。
−第二コリント10:1-2「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、この私パウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。私たちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。私がそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています」。
・それに対して、コリント教会は深く悔い改め、それを聞いたパウロは喜んで和解の手紙を書いた。それが第二コリント1−2章である。パウロはコリント教会を「神の教会」と呼び、信徒を「聖なる者たち」と呼んでいる。
−第二コリント1:1-2「パウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。
・3節から「慰める」という言葉が繰り返し出てくる。神からの慰めなしには、問題含みのコリント教会への手紙は書けない。
−第二コリント1:4-5「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」。
・「あなた方も祈りを通して、宣教の業に参加してほしい。それでこそ、私たちは兄弟になるのだ」とパウロは訴える。教会とはキリストの体の一部であり、部分は共に苦しみ、共に喜ぶ。
−第二コリント1:6-7「私たちが悩み苦しむ時、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、私たちが慰められる時、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたが私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについて私たちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです」。
・パウロはアジア州で死ぬような目にあった。重い病気に陥り、死生をさまよったのかもしれない。投獄されたともいわれる。しかし、神は救って下さった。この出来事を通して、問題を自力で解決しようとしていた自分の誤りがわかった。
−第二コリント1:8-10「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて・・・死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし・・・これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」。
3.パウロの必死の手紙
・自分を批判し、信頼しない人々を、パウロは「誇る」と言う。牧会者は失望の中にあっても教会に対する希望を捨てない。それはキリストが教会の頭であり、主が助けてくださるという信仰があるからだ。
−第二コリント1:13-14「私たちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、私たちをある程度理解しているのですから、私たちの主イエスの来られる日に、私たちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとっても私たちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。」
・パウロはコリントへ行く計画を立てていたが、行けなかった。コリント教会の中には、パウロを「然り」といったのに、今度は「否」というような、無定見な約束を守らない人だと批判する人もいたらしい。
−第二コリント1:15-17「私は、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも私が計画するのは、人間的な考えによることで、私にとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか」。
・コリント教会を訪問すれば叱責することになる。そのため、パウロはコリント行きを延期したのかもしれない。
−第二コリント1:23-2:2「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、私がまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです・・・私は、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです」。
・太宰治は聖書を熱心に読んでいたが、この「第二コリント書ほどよく分かる箇所はない」と語った「パウロはここに愚痴に似た事さえ付け加えている。さうして、おしまいには、群衆に、ごめんなさい、ごめんなさいと謝っている。まるで、滅茶苦茶である。このコリント後書は神学者には難解なものとせられている様であるが、私たちには一番よく分かるような気がする。高揚と卑屈の、あの美しい混乱である」(太宰治「パウロの混乱」)。「人間失格」を描いた太宰は、多くの人から裏切られ、彼自身も人を裏切り続けた。だから、パウロの悲しみや怒りが強く迫ってきたのかしれない。
・榎本保郎師は語る「神は模範的な教会を用いられたのではなく、このコリント教会のような、いわば劣等生のような教会を用いられた。私たち劣った一人一人に対しても同様である。私たちが自分の弱さ、つまらなさに泣く時、私たちが生きているのではなく、神に生かされ用いられていることを知る」(榎本保郎、新約聖書1日1章、P332)。
・教会には誤解や争いが絶えない。これが「神の教会か」と思うこともしばしばある。パウロもまた、このあまりにも人間的な現実の中で、悩み、悲しみ、怒るが、教会に対する責任を放棄することはない。信仰は、教会なしには生まれず、育まれることはないことを知る故だ。しかし、その人間的対立の中から人の心に迫る手紙が生まれてきた。第二コリント書は宝物のような書簡だ。そしてこの宝物は苦難の中から生まれてきた。神の御心にかなった悲しみを通して、私たちは神の祝福を受けるのである。
−ローマ5:3-5a「(私たちは)苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません」。