1. 律法から信仰へ
・パウロは異邦人伝道のために奔走していたが、心の底ではいつも同胞ユダヤ人の救いのことが気になっていた。ユダヤ人は何故福音を拒絶するのか、彼らは救いから漏れてしまうのか。それが彼の心痛だった。
−ローマ9:2-3「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。
・10章もまたパウロの同胞への心からの願いと祈りで始まる。しかし同時に、「彼らは熱心であるが、その方向性が間違っている」とパウロは批判する。
−ローマ10:1-2「兄弟たち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。」
・ユダヤ人は熱心に神の戒めを守ろうとしたが、熱心になればなるほど他者を裁くようになった。人が行いによる義を追い求める時、信仰は自己主張的になり、熱心に戒めを守ろうとする人たちは、戒めを守らない人を裁くようになる。それはパウロ自身の体験だった。
−ピリピ3:6「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。
・神の律法に対する熱心さがパウロを教会の迫害者にした。しかしその彼がキリストとの出会いを通して変えられていく。その時、彼を含めたユダヤ人が追求していたのは、「神の義」ではなく、「自分の義」であったことを知る。
−ロ−マ10:3-4「なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目的であります。信じる者すべてのために。」
・パウロは申命記30:11-13を引用して「律法による義」を裏付けようとしている。「神の律法は天上にあり、それを行うため、自分が天に上らねばならぬとユダヤ人は考えている」。しかしその必要はない。なぜなら、「すでにイエス・キリストが『神の律法』を携えて地上に降下されているのだから」とパウロは語る。
−ローマ10:5-6「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。」
・パウロは申命記30:13を引用して、「人は傲慢から失敗し、挫折の底なしの淵にしばしば落ちる。人の力には限界がある、敬虔であれ」と教えている。
−ローマ10:7-8「また、『「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない』これは、キリストを死者の中から引き上げることにあります。では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」
2.信仰による救い
・もう「律法による義」は不要になったとパウロは言う。では、律法に代わるものは何か、キリストに対する信仰である。ここに行為義認(善い行いが人を救う)から、信仰義認(命の源である神を信じることにより救われる)への歴史的な転換がある。故にパウロは語る。
−ローマ10:9「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」
・信仰は口先だけのものではなく、心の底からのものであらねばならない。だから、人は心で信じた時、口から信仰の言葉があふれ出て来るのだ。
−ローマ10:10-11「実に、人は心で信じて義とされ、公に言い表して救われるのです。聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することはない』と書いてあります。」
・現代の私たちはこの言葉を聞いて当然のことだと思うが、当時においては、これはありふれた告白ではなかった。ローマに住むキリスト者が「イエスは主である」と公に告白するのは、「ローマ皇帝は主ではない」と告白するのと同じで、周囲から激しい敵意や圧迫を招く行為だった。この手紙から数年後、ローマのキリスト者たちは皇帝ネロの迫害の中で命を落として行った。パウロもその時、殉教して死んだと言われている。日本でも戦時中にキリスト教信仰を公にすることは、敵性宗教を信じている非国民として糾弾された。「口でイエスは主であると公に言い表す」ことは、命がけの行為だったのだ。その命がけの行為が救いをもたらす。
−ローマ10:11-13「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」
・「主の名を呼び求める」、ヨエル書からの引用だ。パウロは「主の名を呼び求める」すべての人が、救いの対象になると語る。
−ヨエル3:5「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」
3.主の名を呼び求めること
・ヘルムート・ティーリケは、第2次大戦時代を生きたドイツの神学者だが、彼は著書の中で、戦争中に体験したある出来ごとを語る。戦争中にティーリケは「神はいずこにいますか」という小冊子を書いて兵士たちに配布したが、ある日、それを読んだ18 才の戦車兵から手紙を受け取る。戦場で大急ぎで書いたらしい手紙には、「あなたがここに書いていることは全くの馬鹿話です。この私に対して出会う神はどこにもません。この目で見た全ての恐るべき事の中に、神なんか存在しないという反証を私は十分すぎるほど経験してきました、神がどこかにいるかと仮定するよりは、神は不在であると考える方がずっと良いことなのです」。戦場は殺し合いの現場だ。「殺さなければ殺される、そういう悪を放置しておられる神を信じることなどとても出来ない」と青年は反駁した。
・この手紙の中に、必死で神を求める青年の心を感じた著者はすぐにペンを取り、戦場にいる青年との間に何度か手紙のやり取りがあった。そうこうするうち、戦場からの通信は途絶えた。そして何週間かの空白の後に、青年の母親から手紙が届いて、青年がティーリケに出そうとした書きかけの破れた手紙が同封されていた。青年は敵の砲弾に撃たれて、彼の体は四散し、その身体と共に、手紙の断片が残されていた。そこには「やはり神を信じることはできない」と書いてあった。母親の手紙はこう結ばれていた。「私は、永遠の御国において、どこで息子に会えるのでしょうか」。
・著者は何度もためらった後、亡くなった戦車兵の母親に手紙を送る。「あなたの息子ハンスの運命は、お母さんとしてのあなたの心を痛ましめる心配事であります。私にもお気持ちがよくわかります。しかし、悲しいことに私は、『神は、この未完の若者、疾風怒涛の中を生きた彼を愛し、必ず天国に受け入れて下さったであろう』と、単純にはあなたに書くことができません。私は、真理の厳しさの故に、またあなたの愛の深さの故に、あなたを欺きたくないのです。しかし私は、あなたに、あの神の愛を指し示そうと思います」。ティーリケは続ける「あなたは、次のような聖書の言葉をご存じでしょう。『自分の思いわずらいを、いっさい神に委ねるがよい。神はあなたがたをかえりみて下さるのであるから』(1ペテロ 5:7)。
・ハンスの運命に関する疑問は、あなたにとって、切実な心配事であります。だからそれを、神に委ねなさい。私たちは、その行為が決して無駄ではなく、むしろ、私たちの心配事は主のみ心に必ず触れ、主がそれを感じて受けとめ、真剣に担ってくださるという約束を与えられているのです。主がそれをどのように処理され、そこから何を生み出すかは、私たちにはわかりません。しかしハンスのために祈りを捧げるとき、私たちの思いわずらいとは別な仕方であなたの心の悩みはいやされることでしょう。それが取り去られ、主のもとに預けられるということは、大きな慰めであります。私たちの心配事が大きければ大きいほど、ますます深く私たちは主を信頼することが出来るのです」(H.ティーリケ「アメリカ人との対話」、ヨルダン社、p178-183)。 主に出会うことなく死んでいった人たちが、天の御国に受け入れていただけるのか、私たちは知らない。しかし聖書は、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と語る。その約束をパウロが伝え、私たちも受け入れていく。たとえ洗礼を受けずとも、信仰告白を公にせずとも、主はこの青年を見捨てることはない。それが私たちの希望であり、信仰であり、パウロの信仰だ。