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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年12月26日祈祷会(ガラテヤ5章、キリスト者の自由)

投稿日:2018年12月26日 更新日:

2018年12月26日祈祷会(ガラテヤ5章、キリスト者の自由)

1.キリスト者の自由

・ガラテヤの人々は割礼を受けなければ救われないとのエルサレム教会の伝道者の勧めで、割礼を受けようとしている。パウロは彼らに言う「割礼を受ければ、あなたはキリストと無縁の者になるのだ」
−ガラテヤ 5:1-2「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです・・・もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」。
・律法による救いとは、律法を全て守ることなのだ。そのようなことは人には出来ない。「この小さき者にしなかったのは、私にしなかったのだ」と言われて、誰が自分は無罪だと主張できよう。
−マタイ25:41-45「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ・・・この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」。
・私たちは律法を守りきることは出来ない。だからキリストが死んで下さった、その恵みにすがるしかないのだ。
−ガラテヤ5:3-5「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。私たちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」。
・ユダヤ主義キリスト者たちは律法を捨てて、十字架の恵みのみにすがることが出来なかった。ユダヤ主義者たちは形のある信仰を求めた。律法は見える。割礼を受ける、安息日を守る、食べていけないと言われたものは食べない、見えるものを守ることで救いの確信を得たいと思うのが律法主義だ。彼らはキリスト者ではない、むしろキリストの福音の妨害者なのだとパウロは言う。
−ガラテヤ5:7-12「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。・・・あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます・・・ あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」。
・律法そのものは悪ではない。ただ「律法を守れば救われる、守らない者は裁かれる」とする時に、それは悪になって行く。安息日は「休みなさい」という恵みであり、良いことだ。しかし「安息日を守らない者は呪われる」とした時、その律法が悪になって行く。割礼もそうだ。神に従うしるしとして割礼を身に帯びることは祝福である。しかし「割礼を受けない者は救われない」とする時、それは悪になって行く。人は良いものを悪に変えてしまう存在なのだ。

2.キリストの霊を受けて生きる生活

・あなたがたはキリストから自由をいただいた。その自由はあなたがたの肉の欲を、霊の愛に変える。肉の欲は相手を自分に仕えさせようとし、愛は自分を相手に仕えさせるように導く。
−ガラテヤ5:13「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。
・キリスト者の自由は律法を否定しない。信仰によって働く愛こそが律法をまっとうさせるのだ。
−ガラテヤ5:14「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。
・霊に従って歩みなさい。霊は肉の欲を愛の願いに変えるのだ。
−ガラテヤ5:16-18「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」。
・肉の業は不品行をもたらす。律法によっては、私たちは肉欲から自由になれないのだ。
−ガラテヤ5:19-21「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」。
・霊の業は徳をもたらす。私たちはキリストと共に、肉の欲望を十字架につけたのだ。
−ガラテヤ5:22-24「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。
・原理主義者は反キリスト者となる。パウロもそうだし、キリスト教原理主義者も同じだ。原理主義者は違うものを攻撃することによって、自分の正しさを確保する。しかし、愛は人を責めない、愛は相手の罪さえも覆うものだ。私たちが求められているのは愛だ。
−第一ペテロ4:8「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。

3.ガラテヤ5章の黙想

・主の祈りは美しい祈りだ。私たちは祈る「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。ある説教者によれば、裏・主の祈りがあるという。
−裏・主の祈りから「側にいて下さる私の神よ。私の名を覚えて下さい。私の縄張りが大きくなりますように。私の願いが実現しますように。私に一生、糧を与えて下さい。私に罪を犯す者をあなたが罰し、私の正しさを認めて下さい。私が誘惑にあって悪に溺れても、私だけは見逃して下さい。国と力と栄えとは限りなく私のものであるべきだからです。アーメン」(平野克己、主の祈りから)。
・ルカ18章でイエスが提示されたファリサイ人の祈りはその典型だ。
−ルカ18:10 -12「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。
・これが人の本音に近い祈りであろう。しかし、イエスが肯定されたのは、ファリサイ派の人ではなく、罪びととされた徴税人の祈りだった。
−ルカ18:13-14「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
・人は結局、自力では自我から脱出できない存在であり、エゴから解放されるには、エゴを十字架につけるしかない。それはキリストと共に死ぬ、キリストの十字架を背負って生きることだ。
−ローマ6:6-8「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。

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