1.神の計画による異邦人の選び
・パウロの伝道活動を報告した使徒行伝では、当時の地中海世界の至る所にユダヤ人共同体が形成され、パウロは各地のユダヤ人シナゴーク(会堂)を訪れ、そこを足場に伝道していったと語られている。エペソにもピリピにもコリントにも、そしてローマにもシナゴークがあった。母国ユダヤが繰り返し異国の侵略を受け、その結果難民が各地に散らされて、ユダヤ人共同体が形成され、その国際的なユダヤ人ネットワークに乗って福音が拡がって行ったのである。しかし、その中で、多くのユダヤ人は福音を受け入れなかった。そのため、伝道の対象が異邦人となり、異邦人教会が形成されていく。「ユダヤ人の拒絶により、福音が異邦人に伝わっていった」、ここに神の不思議な計画があり、パウロはこの神の計画について、ローマ書9-11章の3章で述べる。
・パウロは書簡の中で、「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがある」と語る。それは同胞ユダヤ人が福音を受け入れず、その結果神の救いに預かっていないことだった。何故、イスラエルはキリストを受け入れないのか、彼らはこのまま滅びるのか。ユダヤ人パウロにとっては最大の心配事だった。
−ローマ9:1-2「私はキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。私の良心も聖霊によって証ししていることですが、私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」
・パウロは「イスラエル同胞が福音を受け入れてくれるなら、自分は神から見捨てられてもよい」とさえ極言する。
−ローマ9:3「私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」
・彼らイスラエル人は「神の子としての栄光はもとより、神との契約も、律法も、またキリストも、すべて彼らのものではないか」とパウロは語る。
−ローマ9:4-5「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、ア−メン。」
・神を知らない者は、自分の不幸や欠陥を悲しむ。しかし、神を知った者は、他人の不幸や欠陥を悲しむ者にさせられる。モーセも「罪を犯した同胞が救われるためであれば、自分は滅んでも良い」と言った。
−出エジプト記32:32「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・もし、それがかなわなければ、どうかこの私をあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」
2.神の選び
・イスラエルの選びとは何だったのか。旧約の長い歴史は無意味だったのか。パウロは「そうではない」とかたり、アブラハムから生まれたイサクとイシュマエルを実例に挙げて説明する。アブラハムの子と認められたのはイサクだけで、もう一人のイシマエルは認められなかった。イスラエルから出たというだけで神の子と認められるのではない。真のイスラエルとは肉のイスラエルではなく、霊のイスラエルなのだ。
−ローマ9:6-9「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。約束の言葉は、『来年の今ごろに、私は来る。そして、サラに男の子が生まれる』というものでした。』」
・血縁関係の子供、肉の子がそのまま神の子と呼ばれることはない。そこでパウロはさらに一つの実例をあげる。ヤコブとエサウの例である。神が長子エサウではなく次子ヤコブを選んだ。神の選びの基準は人間には理解できない。
−ローマ9:10-12a「それだけではなく、リべカが、一人の人、つまり私たちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。」
・神は、選ばれる者の善し悪しに関係なく、御自身の自由な計画と選択により選ばれる。では、そんな選び方をする神に間違いはないのか。
−ローマ9:12b―14「それは自由な選びによる神の計画が人の行いによらず、お召しになる方によって進められるためでした。『私はヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてある通りです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」
・神はモーセを選んだが、モーセは必ずしも完全無欠な人物ではなかった。しかし、彼は神の御計画に従い、最後まで権力と戦い、民衆を導いた。ファラオがイスラエルの民をエジプトから解放しなかった時、ファラオに10の災いを下された。
―ローマ9:15-16「神はモーセに『私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従ってこれは、人の意志や努力ではなく。神の憐れみによるものです。」
・パウロは、神がその力を世界に示すために、ファラオを立てたと、出エジプト9章16節から引用する。この箇所が語っているのは、神に逆らい、神の民を苦しめているように見えるファラオも、神の権威を世界に示すために用いられたとパウロは理解する。
―ローマ9:17-18「聖書にはフアラオについて、『私があなたを立てたのは、あなたによって私の力を現し、私の名を全世界に告げ知らせる為である』と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」
3.私たちはパウロの言葉をどう受け入れるのか
・私たちは、パウロの説明を聞いておかしいと思う。もし神が自分の好き嫌いで、ある者を救い、ある者を滅ぼすとすれば、神は不義であり、不公平である。人の信じる、信じないという判断さえも神の意思だとすれば、人間には全く自由意志がない。そうであれば「ある人が信じないとしても、神はその人を責めることは出来ないのではないか」。私たちの疑問をパウロは一喝する「あなたは何者か。あなたは神に口答えをするのか。造られた者が、造った者に対して、何故私をこのように造ったのかと言えるのか」。
−ローマ9:19-20「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」
・「神はかたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」、神は何故ユダヤ人をかたくなにされたのか。パウロはこれまでの伝道活動を振り返った時、そこに一筋の道が見えて来た。エルサレムで生まれた教会は同胞ユダヤ人への伝道を始めたが、ユダヤ人はこれを受け入れず、教会を迫害した。その結果、信徒たちはエルサレムを追われ、結果的に福音がエルサレムの外へ、異邦世界に伝えられて行った。ユダヤの外においても多くのユダヤ人は拒絶し、パウロは異邦人伝道に向かって行かざるをえなかった。「ユダヤ人の拒絶を通して福音は拡がって行った」のである。
・もし母国のユダヤ人が福音を受け入れたら、福音はパレスチナだけの教えに終わっていただろう。また海外居住のユダヤ人が福音を受け入れたら、福音はユダヤ社会の中に留まり、イエスの教えはユダヤ教内の一派に終わっていただろう。そこまで考えた時、パウロに神の経綸がおぼろげに見えてきた。「神はユダヤ人の不服従を通して、異邦世界に福音が伝えられ、全世界が救われるようにされたのだ」と。異邦人を救うために、ユダヤ人をかたくなにされたのであれば、今度は異邦人の信仰を通して、ユダヤ人を救われるに違いない。神はユダヤ人の悔い改めを待っておられることにパウロは気づく。神はイスラエルを見捨てておられない、パウロはその確信に到達した。