1.「種を蒔く人」のたとえ
・イエスは湖上から湖畔の群衆に福音を語られた。イエスは時と場所を自在に用い、福音を語り続けられた。イエスは「山上の説教」(マタイ5−7章)、「平地の説教」(ルカ6:17−49)、町や村、会堂など多くの場所で福音を語られた。マルコ4章は「湖畔の説教」である。
−マルコ4:1−2「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。」
・イエスは神の国の奥義を民衆に教えようとして、民衆生活に卑近な種蒔きをたとえに語られた。パレスチナでは、農夫は畑一杯に種を散布し、それから種を土にすき込む。道端に落ちた種は発芽しないだろうし、岩地に落ちた種は芽を出しても発育しない。あざみの種も穀物の種と同じにすき込まれるため、穀物の成長を妨げるだろう。しかし、良い地に蒔かれた種は豊かな実を結ぶ。
−マルコ4:3−4「『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。』」
・石だらけで土の薄い土地に蒔かれた種は、発芽しても覆い育てる土も水分もないから、芽を出せても、土が薄いから、太陽に照らされると、すぐ枯れてしまう。
−マルコ4:5−6「『ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。』」
・茨の中に落ちた種は、繁茂する茨の勢力に負けて枯れてしまう。
−マルコ4:7「『ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので。実を結ばなかった。』」
・良い土地に蒔かれた種は、育って三十倍、六十倍、百倍の実を結んだ。
−マルコ4:8−9「『また。ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。』そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」
・イエスは宣教された福音の種がどのように成長するのかを、人々に話された。イエスは「神の国が来た」と宣教されたが、律法学者やファリサイ人はイエスの言葉を受入れず、イエスに敵対していった。民衆はイエスのいやしは求めたが、言葉は聴こうとはしなかった。その中で、イエスは、少数の者は言葉を聴いて従い、彼らを通して神の国は広がっていくとの確信を語られている。
2.「種を蒔く人のたとえ」の説明
・4章13節からたとえの解説が始まるが、14節「種を蒔く人は神の言葉を蒔く」の「神の言葉」(ホ・ロゴス)は初代教会特有の言葉である。このたとえの解説はイエスご自身の言葉ではなく、イエス後の教会がイエスのたとえから聞いた言葉であろう。「御言葉が蒔かれても」、イエス後の教会が宣教に励んでも、それを受け入れる人が少なかった伝道の困難がここに表明されている。
―マルコ4:13−14「また、イエスは言われた。『このたとえが分からないのか。ではどうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は神の言葉を蒔くのである。』」
・「道端に落ちた種」は、自己の信念や経験を絶対のものとして、使信を聴いても受入れない人々のことであろう。
―マルコ4:15「『道端のものとは、こういう人たちである。御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。』」
・石だらけの地に落ちた種とは、「御言葉を聞くとすぐ喜んで受入れるが、自分には根がないのでしばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」という意味であろう。初代教会は同胞ユダヤ人社会からの迫害の中にあり、信仰から離れる人々が後を絶たなかった現実の中で、このような言葉が表明されている。
―マルコ4:16−17「『石だらけの所に蒔かれたものとは、こういう人たちのことである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。』」
・茨の中に落ちた種とは、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」人たちのことであろう。この世の思い煩いや富の誘惑が信仰の成長を阻むという現実が初代教会にもあった。
−マルコ4:18−19「『また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い患いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。』」
・しかし少数であれ、福音の言葉を受け入れ、イエスに従っていく人たちが存在した。
−マルコ4:20「『良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。』」
・「御言葉が蒔かれる」、「御言葉につまずく」、「御言葉のために迫害が起こる」、当時の教会は一生懸命に伝道したが、実りの少なかった厳しさが反映されている。初代教会の人々は、イエスが語られた「種まきのたとえ」を、伝道に行き詰まっている自分たちの教会に語られた言葉として聞き、「御言葉を聞いて受け入れる人が出てくるから、たゆまず伝道しなさい」と聞いた。それが4章13-20節の部分であろう。この部分は、初代教会がどのように苦労して伝道していったかを知る上で貴重な証言であり、現実的な受け止め方だ。しかし、イエスが語られたのは、本来はそういう意味ではなかったと思える。
3.イエスは何を語られたのか
・イエスは「種蒔きのたとえ」の中で、「種を蒔く人は長年の経験から蒔いた種に多少の損失があっても、良い種は芽を出し、成長し、豊かな実をつけることを知っている。だから多少失われていく種があっても平気であり、むしろ将来の豊かな収穫を予期しながら、希望に満ちて種を蒔く」と語られた。その希望の根拠が次に続く「成長する種」のたとえである。蒔かれた種は「神の種」であり、種そのものに命があるゆえに、種はその力で成長していく。
−マルコ4:26-27「また、イエスは言われた『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない』」。
・農夫は蒔いた種がどのようにして成長するのかは知らない。しかし、長年の経験で、種が蒔かれ、土がかぶせられ、雨が降り、太陽が射すうちに、種は発芽し、茎が伸び、穂が出て、やがて豊かな実をつけることは知っている。「良い地に蒔かれた種は多くの実をつける。それは種に命があるからだ」、これこそがイエスが種蒔きのたとえで言われたかったことではないだろうか。
−マルコ4:28-29「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」。
・イエスは次にからし種のたとえを語られた。からし種は大きさ1ミリに満たない、種の中で最も小さいもので、文字通り「ケシ粒」だ。その小さい種でさえ、蒔いて成長すると3メートルほどの大きさになる。
−マルコ4:30-32「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。
・イエスは「神の国は来た」と繰り返し語られたが、誰もそれを認めようとしない。種が小さすぎて目に入らないからだ。今、イエスの目の前には、かつては漁師や徴税人だった少数の弟子たちしかいない。エルサレムの宗教当局者はイエスを律法違反者として追跡し、捕らえて、裁判にかけようとしている。イエスの伝道の業はからし種のように小さい存在だった。それはイエスが生きておられた時には実を結ばなかった。しかしイエスは、それが神の種であればいつかは発芽し、成長し、多くの収穫を結ぶと信じておられた。その確信をイエスはたとえで話された。イエスが十字架で死なれた時、誰もそれがやがては世の中を変えるような出来事だとは思わなかった。しかし、イエスの十字架から、多くの芽が発芽し、それはやがてローマ帝国を覆い、全世界を覆うほどの大木になって行く。
・種蒔く人の譬えは、人々の拒絶を前にしても怯むことなく、神への信頼に基づく希望の中に生きられたイエスの姿を伝えている。私たちはそのイエスから使命を受け、神の国、神の支配の中に生かされている。世はまるで神などいないような現実を示している。その中で小さな教会を形成し、そこに何人かの人が集まっていたとしても、そこに神の国が来ているとは誰も信じない。しかし私たちは「神の種」をいただいている、いただいているものが神の種である以上、必ず発芽し、成長し、多くの実を結ぶ。この世がたとえ「神なき世界」のように見えても、世界を支配しておられるのは神であることを信じ、その希望の中で私たちは教会を形成していく。
−ルカ13:32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。