1.コリント教会の設立
・パウロはアテネを離れ、コリントへ移った。この時のパウロはアテネ伝道の失敗から、落ち込んでいた。自分には伝道者としての雄弁さが欠けているのではないかとの思いもあったかもしれない。
−?コリント2:3-4「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした」。
・コリントは交易によって栄えたヘレニズム有数の都市であり、アカイア州の州都でもあった。人口70万人を超える世界都市で、多くのユダヤ人が住み、ユダヤ人会堂(シナゴーク)も複数あった。そのコリントでパウロは生涯の伝道協力者となる、アキラ・プリスキラ夫妻に出会う。アキラとその妻プリスキラは、元々ロ−マ在住のユダヤ人で、ローマで信徒となり、結婚生活していたが、紀元前49年のクラウディウス帝によるユダヤ人のロ−マ追放で、彼らもローマを追放されていた。
−使徒18:1-2a「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をロ−マから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。」
・パウロは労働で生活を支えながら伝道を続けた。アキラ・プリスキラ夫妻も職業がパウロと同じテント作りだったので、共に助け合って働くことになった。
−使徒18:2b−4「パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に務めていた。」
・アキラ・プリスキラ夫妻は、コリント以後もパウロの良き協力者となり、パウロの第三回伝道旅行では、三年間エフェソで共に働き、パウロが危難に遭った時は命がけでパウロを守った。パウロはロ−マ書の中で夫妻に感謝を述べている。
−ローマ16:3−4「キリスト・イエスに結ばれた私の協力者になっている、プリスキラとアキラによろしく、命がけで私の命を守ってくれたこの人たちに、私だけでなく、異邦人の全ての教会が感謝しています。」
・そのパウロのもとにマケドニアで伝道していたテモテとシラスも合流する。二人はマケドニアのフィリピ教会からの献金を携えてきたので(フィリピ4:15)、その後のパウロは伝道に専念する事が出来た。パウロにとって同労者シラスとテモテの存在は大きく、助けとなった。しかしコリントでの伝道はユダヤ人の反対が激しく、難航した。
―使徒18:5−6「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉に専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。私には責任はない。今後、私は異邦人の方へ行く。』」
・パウロは反抗するユダヤ人の会堂を去り、神を崇める異邦人ティティオ・ユストの家でなお伝道を続けている。その後、会堂長クリスポが一家をあげて入信した。
−使徒18:7−8「パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家へ移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々もパウロの言葉を聞いて信じ、バプテスマ(洗礼)を受けた。」
・伝道の苦労を重ねているパウロを、ある夜、主は幻のよって慰め、励ました。伝道者は、成果が見えない時は、孤独である。しかし、神の民は必ずいる。伝道とは、隠されている主の民を見出すことだ。
−使徒18:9−11「ある夜のこと、主は幻の中でこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ。パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。』」
・ユダヤ人たちは力づくでパウロを捕え、総督ガリオンの前に引き立てて行き、訴えた。しかし、総督は、ユダヤ人の訴因が犯罪や政治問題ではなく、宗教紛争であると知ると手を引いてしまい、関わろうとしなかった。ローマ当局者はユダヤ人同士の争いが騒乱にならない限り、手出しをしなかった。
−使徒18:12―17「ガリオンがアカイア州の地方総督だった時のことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引きたてて行って、『この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております。』と言った。パウロが話し始めようとした時、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。『ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪であるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。私はそんなことの審判者になるつもりはない。』そして、彼らを法廷から追い出した。すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれにまったく心を留めなかった。」
・パウロたちは1年6ヶ月コリントに滞在する。アテネでのパウロは孤立無援の戦いだったが、このコリントではローマから来たアキラ・プリスキラ夫妻、アンティオキアからの同労者テモテ、シラスも加わり、チーム伝道がなされ、その結果、多くのコリント市民が信仰に導かれた。ギリシア人の有力者ティティオ・ユスト(18:7)、ユダヤ教会堂長クリスポ(18:7)、同じく会堂長であったソステネス(18:17)、市の収入役エラストス(使徒19:22、ローマ16:23)等が加わり、ここにコリント教会が設立された。
2.パウロ、アンティオキアに戻る
・総督ガリオンの宗教紛争不介入で、危難を免れたパウロは、暫時コリントに滞在の後、エフェソへ旅立った。パウロは密に誓願していた。誓願の目的はおそらくコリント伝道の成功であったろう。誓願の成就を感謝してパウロは髪を切った。
−使徒18:18「パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州に旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたのでケンクレアイで髪を切った」。
・エフェソの会堂で出会ったユダヤ人はパウロの話に興味を持ち、しばらく滞在するよう願ったが、パウロは振り切るようにして、パレスチナへ向かう船に乗った。パウロ不在の間、エフェソ伝道はプリスキラとアキラが補った。
−使徒18:19−21「一行がエフェソに到着した時、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、『神の御心ならば、また戻って来ます』と言って別れを告げ、エフェソから船出した。」
・パウロはカイザリア上陸、エルサレムを経て、アンティオキア、ガラテヤ、フリギアを巡回、弟子達を力づけた、パウロの伝道の旅に終わりはなかった。
−使徒18:22−23「カイサリアに到着して、教会に挨拶するためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはここでしばらく過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。」
3.アポロ、エフェソで宣教する
・アポロは豊富な聖書知識を駆使して、人々にイエスが救世主であると伝えていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。彼は部分だけで全体を知らない伝道者だった。
―使徒18:24−26「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家がエフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたがヨハネのバプテスマ(洗礼)しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。」
・プリスキラとアキラはアポロを伝道者として教育し直し、アカイア州へ送り出した。現代でも同じことで、聖書教育は常に必要なのである。
−使徒18:27−28「それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、すでに恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人を説き伏せたからである。」
・パウロが不在の間もエフェソではプリスキラとアキラの伝道が続き、コリントにはアポロが遣わされ、やがて彼はコリント教会の指導者になって行く。伝道の成功はチーム伝道にあった。教会の伝道は牧師と信徒が互いに助け、支えあう時に進展する。
-H・クレーマー・信徒の神学から「信徒は世にあり、世のもろもろの組織・企業・職業の中にくまなく存在する。その場所こそ彼らの宣教の場所だ。世にあるキリスト者、それが信徒であり、教会はその信徒を助け、支える役割を持つ。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく。信徒こそが世に離散した教会である」。