1.安息日に水腫の人をいやす
・シナゴークでの集会の後、エルサレムの有力者(ユダヤ議会の議員)がイエスを食事に招いた。イエスは安息日にパリサイ人の食卓につかれた。
−ルカ14:1「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。」
・「人々はイエスの様子をうかがっていた」、ファリサイ人はイエスの前に、水腫を病む者を座らせた。水腫は内臓疾患や栄養失調などが原因で、皮下組織にリンパ液などが溜まり、皮膚がむくみ、時には呼吸困難になる。彼らは誰の目にも明らかに病人と分かる者を、あえてイエスの前に座らせ、イエスを試した。
−ルカ14:2-4a「その時、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか』。彼らは黙っていた。」
・イエスはファリサイ人の企みを見破っていた。イエスは安息日のいやしの是非について、彼等自身の子供や家畜を例にあげ、聞いたが彼等は答えられなかった。
−ルカ14:4b-6「すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか』。彼らは、これに対して答えることができなかった」。
・イエスは「安息日を廃止せよ」と言われたのではない。イエスは安息日の遵守を盾に、病人をいやそうともしない、ファリサイ人の中味のない形式主義を戒めていた。
−マタイ5:20「『言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。』」
・私たちは安息日をどのように守るのか。イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)と言われた。カール・バルトは「教会教義学」の中で、キリスト者の倫理を「神の御前での自由」と記し、さらに安息日を「祝いと自由と喜びの日」と書く。
-バルト・教会教義学「日曜日を『礼拝を守らなければいけない日』と考えた時、それは私たちを縛る日になる。日曜日を『礼拝に参加することが出来る日』と受け止めれば、私たちの人生は豊かになる。」
2.客と招待する者への教訓
・イエスはファリサイ派の人々が上席につきたがる様子を見て批判された。彼らは人の目を気にする。
−ルカ14:7-9「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された『婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、この方に席を譲って下さいと言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる』」。
・イエスは人々に言われる「末席に座りなさい」。神の国の招きにおいて、席順を決めるのは招いた者(神)であり、招かれた者ではない。自分は当然に神の国の上席に座る資格があると思っているファリサイ派に対する痛烈な皮肉がここにある。
−ルカ14:10-11「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んで下さい』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
・イエスは集った宴客が、主人の親しい人々や、近所の裕福な人々であるのを見て、返礼を期待できない、恵まれない人々を招くべきであると教えておられる。ここには「神は貧しい人たちをこそかえりみられる」というイエスの神の国の考えが反映している。
−ルカ14:12-14「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催す時には、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催す時には、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活する時、あなたは報われる。』」
・この社会では、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」は差別され、社会から排除される。しかし「神の国ではそうではない」とイエスは語られた。
-マタイ25:35-40「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」
3.「大宴会」のたとえ
・宴会の客の一人がイエスの話に感動し、神の国の祝宴は素晴らしいとほめた。
−ルカ14:15「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った。」
・その人々に、イエスは「神の国の祝宴」のたとえを語られる。
−ルカ14:16-20「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に『もう用意ができましたから、おいで下さい』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は『畑を買ったので、見に行かねばなりません・・・』と言った。ほかの人は『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです・・・』と言った。また別の人は『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」
・それを聞いた主人は怒って、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と召使に命じる。
-ルカ14:21「僕は帰って、このことを主人に報告した。家の主人は怒って僕に言った『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』」。
・さらに空席を満たすために、ほかの人々(異邦人たち)さえ招かれるとイエスは語られる。
−ルカ14:22-24「僕が『御主人様、仰せの通りにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない』」。
・「盛大な宴会の喩え」では、「主人が宴席(神の国の食事)に招待しようとしても人々が多忙を理由に断る」。大貫隆はそれについて、「日常的・連続的時間、つまりクロノスの根強さがここにある。仕事に追われて宴会どころではない。神の国、そんな話を聞いている暇はさらにない。イエスの『カイロス(今この時)』が、生活者の『クロノス(日常の時間の流れ)』と衝突し、拒絶される」 と解説する。
・人々の断りの理由は、現代人が主日礼拝に出ない理由と似ている。「忙しい」、「間に合っている」、この世の煩いが人々を救いから遠ざけている。「求めない人には神の国の席は与えられない」、この深刻な課題に気づく人は少ない。そして死の時を迎える。ルカ12章「愚かな金持ちのたとえ」はそれを象徴する。
-ルカ12:17-21「金持ちは・・・言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」
・「今に忙殺され、将来を考えようとしない」現代人も、人間存在の根底的問題、「死」に直面した時は平気ではいられない。1985年8月12日、日航機が群馬県上野村御巣鷹山中に墜落し、520名の方々が亡くなったが、36年後の今も、遺族は慰霊登山を続ける。彼らにとって事故は終わっていない。また8月15日には今なお多くの戦没者遺族が靖国神社に詣でる。終戦から71年が経っても彼らの戦後は終わらない。「“カイロス”が生活者の“クロノス”と衝突し、拒絶される」現実が、親しい者の死を通して、「“カイロス”の意味を尋ね続ける」時に変わる出来事が、この日本でも起きている。だから私たちは、聞かれても聞かれなくても伝道する。