江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年7月13日祈祷会(ルカによる福音書10:25−42、善きサマリア人)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.善きサマリア人の譬え

・善きサマリア人の譬えはルカだけが記す。律法の専門家がイエスを試し、自分の知識を誇ろうとして、「永遠の命を継承するため何をなすべきか」と質問した。イエスは彼の下心を見抜き、「律法にはどう書いてあるか、あなたはどう解釈するのか」と反問される。律法の専門家は逆にイエスに試される羽目になった。
−ルカ10:25−26「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』イエスが「律法に何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか』と言われた」。
・彼は申命記6:5とレビ記19:18を併せて引用し、見事に答えた。イエスは彼を褒め、「律法に書かれている隣人愛を実行すれば永遠の命が得られる」と教えられた。
−ルカ10:27−28「彼は答えた。『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」
・律法の専門家は一度褒められたくらいでは物足りず、自分を正当化して、さらなる称賛をイエスから得ようとして、「隣人とは誰か」とイエスに聞き返した。
−ルカ10:29「しかし、彼は自分を正当化しょうとして、『では、自分の隣人とは誰ですか』と言った。」
・イエスは強盗に襲われた旅人の譬えで、律法学者の質問に答えた。エルサレムからエリコまでの約30キロメ−トルの道のりは険阻な山道であり、盗賊が出没した。旅人は強盗に襲われ、瀕死の重傷を負わされ、路上に倒れた。通りかかった、祭司とレビ人は、関わり合いを避けて通り過ぎてしまった。
−ルカ10:30−32「イエスはお答えになった。『ある人がエリサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向う側を通って行った。同じようにレビ人もその場所へやって来たが、その人を見ると、道の向う側を通って行った。』」
・祭司は関り合いになるのを恐れて通り過ぎたのであろうが、同時に「遺体に触れて身を汚してはならない」(レビ記21:1)という律法違反を恐れた。ここに、律法の形式的遵守が隣人愛の実行を妨げていた可能性が出てくる。レビ人はエルサレム神殿に仕える下級祭司だ。当時の神殿には8千人の祭司と1万人のレビ人が働いていた。譬えの登場人物として、最初に祭司を、次にレビ人を持って来られたイエスの心中には、当時の神殿制度に対する批判があったのだろう。何千人もの祭司やレビ人が神殿に仕え、祭儀を執り行っているが、彼らはそれを職業として、生活の糧を得るために仕えているのであり、民のためではない。それを神は喜ばれるだろうかという批判である。
・その後、通りかかったサマリア人は、何の躊躇もなく倒れている旅人に近づき、介抱して宿まで運び、デナリオン銀貨二枚を渡し、「不足なら帰りに払うから」と約束し、世話を頼んで宿をあとにした。
−ルカ10:33−35「『ところが旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨を二枚取り出し、宿屋の主人に言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」』
・サマリア人は「憐れに思った」から手助けした。憐れに思う=ギリシア語スプラングニゾマイは、スプランクノン(内臓)から来ている。「内臓が痛むほど動かされる」、異邦人であるサマリア人が、民族的には敵になるユダヤ人を介抱したのは、「内臓が痛むほど、心が揺り動かされた」ためだとイエスは言われる。「人に自分の境界線を越えて行為をもたらすもの、それが愛だ」とイエスは言われている。イエスは「永遠の命は理論ではない。愛の実践こそ永遠の命である」と教えられた。
―ルカ10:36−37「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎにかかった人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」
・私たちはこの物語から何を聞くのか。イエスが律法の専門家に言われたのは「あなたは何をすべきかを知っているのに、しようとはしない」と言うことだ。愛とは、「誰が隣人か」と問うことではなく、「あなたも同じようにしなさい」(10:37)という言葉に従うことだ。私が行為すればその人は隣人となり、行為しなければ隣人にならない。その行為を導くものは、「心を揺り動かされる」思いだ。そして「隣人になることを通して関係性が生まれる」。助けられた旅人はもはやサマリア人は汚れているから交際しないとは言わないだろう。聖書を私たちに語られた物語として聞く時に、それは私たちに行為を迫る。
・「善きサマリア人」を基にした「Good Samaritan Law」が、アメリカとカナダにある。災難や急病にかかった(窮地にある)人を救うため無償で善意の行動をとった者が、良識的かつ誠実に救いに尽したのなら、たとえ結果が失敗に終わったとしても、その責任は問わないと定めている。法には対応の結果を恐れず、早急に急病人に対応しようという積極性がある。 

2.マルタとマリア

・「マルタとマリア」の物語も、ルカ福音書だけが伝える。物語はイエスが旅の途中に、ベタニヤ村のマルタとマリアの家にお入りになることから始まる。姉妹の性格は対照的で、姉のマルタは活動型、妹のマリアは静思型だった。活動型の姉マルタはイエスに馳走するため台所で懸命に立ち働き、妹マリアはイエスの足元に座りイエスの話に聞いた。マルタの心に不満が起き、彼女はイエスに訴えた。
―ルカ10:38−40「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話しに聞き入っていた。マルタはいろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って来て言った。『主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝うようにおっしゃってください。』」
・マルタは、「女は客が来たらもてなすのが仕事だ、姉の自分がこんなに忙しくしているのに手伝おうともしない」とマリアを批判したのであろう。もしイエスの足元に座って話を聞いていたのが弟のラザロであれば、マルタは何も言わなかったかも知れない。しかし、イエスはマルタが予想もしなかった忠告をマルタにされる。「必要なことはただ一つだけだ」と。
―ルカ10:41−42「主はお答えになった『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことは唯一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取りあげてはならない。』」
・イエスはマルタの働きを評価しながら、同時に彼女に大事なことを教えようとされる。イエスの答えの中心は「多くのこと」と、「ただ一つ」の対照だ。この世界での生活が要求する「多くのこと」と、神が求められる「ただ一つ」のことの対照である。私たちは世で生きていく限り、生活するための多くの思い煩いがあり、心を乱すことが山ほどあるが、私たちが神から恵みと祝福を受けるために必要なことは「ただ一つ」、神の言葉を聴くことだけだ。イエスはマルタに言われる「マルタよ、あなたは私の言葉を聞かずに、もてなそうとして体を動かし、体が疲れ、心まで乱れてしまった。そして、自分だけが働き、マリアは怠けていると思い込んでしまった。マルタよ、あなたの考え方があなたの心を乱している。私のもてなし方は二つある。私に馳走することと、私の言葉を聞くことだ、マリアはその良い方、私の言葉を聞く方を選んだのだ」。
・イエスはマルタの奉仕そのものを否定しているわけではない。問題は彼女がイエスに向かって不平不満をいう態度、あるいは妹を評価しない姿勢だ。当時の社会では、男女の役割には明確な区別があった。宗教的な勤めは第一に男性がするべきことであり、女性は神に仕える男性に奉仕することが要求された。このようなことを考えると、マルタは当時の女性として当然の役割を果たしており、マリアのように座ってラビの話を聞くことは女性としては普通ではない。イエスはそのような男女の役割分担を否定して、マリアの態度を弁護している。このイエスの自由さが男女の役割分担に縛られ、人との比較の中でしか自分や妹を見ることのできなかったマルタにとって、解放されるための「福音」だったのではないだろうか。
-ガラテヤ3:27-28「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。
・私たちはなぜ、日曜日に教会に集まるのか。神の言葉を聞く為だ。そして教会では神の言葉が語られる「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている・・・そこでは男も女もない」。それにもかかわらず、社会の中では男女間に差別があり、教会も伝統的に牧師は男性で、彼は御言葉の学びに専念し、教会の雑事は女性である牧師夫人が行うことが暗黙の了解になっている。また日本には女性牧師が少ない現実がある。女性が御言葉を語ることに拒否感を持つ人々が多いからだ。私たちもまた、主の足元に座って御言葉を聞くマリアを排除しているのでないだろうか。私たちも伝統的役割分担から解放されて、男女の新しい在り方を模索する必要があることを、「マルタとマリア」の物語は教えている。
−ロ−マ9:17「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。」

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