江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年3月23日祈祷会(使徒言行録28:1-31、エルサレムからローマへ)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.マルタ島のパウロ

・パウロたち一行は難破した船から陸地に泳ぎ渡った。その島はマルタ島で、人々は難破した一行のために、焚き火を焚いてもてなしてくれた。
−使徒28:1-2「私たちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためたき火をたいて、私たち一同をもてなしてくれたのである。」
・パウロが枯れ枝を火にくべようとすると、そこに隠れていた蝮がパウロの手を噛んだ。人々はパウロが罪を犯したので、正義の女神がこの人を罰するのだと思った。しかし、パウロが毒蛇に噛まれても死なないのをみると、一転して、パウロを「神」だと賛美する。この蝮事件を契機に、パウロに対する島民の態度が好転し、大きく信頼を得るまでになる。
−使徒28:3-6「パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると。一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。『この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、「正義の女神」はこの人を生かしておかないのだ。』ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし何の害も受けなかった。体がはれ上るか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、『この人は神様だ』と言った。」
・パウロはマルタ島の長官の家族や島の人々の病気を癒し、島民に尊敬された。
−使徒28:7-10「島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼は私たちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。ときに、プブリウスの父親が下痢と熱病で床について、パウロはその家へ行って祈り、手を置いて癒した。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、癒してもらった。それで、彼らは私たちに深く敬意を表し、船出のときには、私たちに必要な物を持って来てくれた。」
・古代人の人生は自然や気候変動のなすがままにされていた。嵐が来れば船は難破し、伝染病が起これば体力のない者は死ぬ。彼らは自然のあらゆる所に神の働きを見た。現代の私たちは、病気には薬が、嵐には気象予報があるが、神を信じることが出来なくなった。かつては病気回復の基本は自然治癒力であり、「手当て」とは手を置くことだった。現代の医療は人間を臓器の集合体とみて、個々の患者を見ない。だから「手術は成功したが、患者は死ぬ」事態も起こる。私たちは、マルタの住民より幸せなのだろうか。
−ヤコブ5:14-16「病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます・・・主に癒していただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」。

2.パウロ、ロ−マに入る

・やがて彼らはローマに向けて船出した。
−使徒28:11-13「三か月後、私たちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した・・・私たちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。」
・パウロたちの船はローマの外港プテオリに入港した。そこから陸路でローマに向かったパウロたちをローマ教会の人々が迎えに来た。
−使徒28:14-15「私たちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして私たちはロ−マに着いた。ロ−マからは、兄弟たちが私たちのことを聞き伝えて、アビイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけたられた。」
・見ず知らずの者でも、同じ信仰を持つ者は仲間として迎えられる。イエスは新しい生き方を教えるために来て、新しい共同体(教会)を残してくれた。パウロは教会を天の居留地と呼ぶ。異質な王国のただ中にある島、拠点である。私たちは祖国を離れた異邦人、寄留者だが、この地上に多くの仲間がいる。
-フィリピ3:20「しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」。
・ローマでパウロは軟禁され、外出は許されなかったが、外部の人と交わることは出来た。パウロはローマに着くと、早速当地のユダヤ人社会の主な人々を集め、伝道を始めた。
−使徒28:16-17a「私たちがローマに入った時、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。三日の後、パウロは主だったユダヤ人たちを招いた」。
・パウロは集まってきたユダヤ人たちにこれまでの経緯を弁明した。
−使徒28:18-20「『兄弟たち、私は、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてロ−マ人の手に引き渡されてしまいました。ロ−マ人は私を取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人が反対したので、私は皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは決して同朋を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、私はこのように鎖でつながれているのです。』」
・ユダヤ人たちは、とりあえずパウロの話を聞こうとした。パウロは神の国について朝から晩まで、力強く語り続けた。信じる者もいたが、多くのものはパウロの言葉を信じなかった。
―使徒28:23-24「そこで、ユダヤ人たちが日を決めて、パウロの宿舎にやって来た。パウロは朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モ−セの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しょうとしたのである。ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとしなかった。」
・皇帝の裁判を受けるまでの二年間、パウロは自費で借りた家に住み、誰にも妨げられず自由に福音を語り続けた。
−使徒28:30-31「パウロは自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」
・フィリピ書はこのローマの獄中で書かれたとされている。そこには、パウロの影響を受けて、ローマの兵卒まで福音を信じるに至ったことが記されている。
−フィリピ1:12-14「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体・・・の人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなく勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。

3.その後のパウロ

・使徒言行録は28:31で突然終わり、その後のパウロがどうなったかは一切記されない。パウロは皇帝に上訴して、時の皇帝ネロの裁判を受ける身だ。その裁判の結果がどうであったのかについて、ルカは結末を知っているはずだ。拘留を「2年間」とする以上、その2年が終わった時、有罪とされて処刑されたのか、または無罪とされて釈放されたかを知っているはずだ。もし無罪となって釈放されたのであれば、その喜びをルカが報告しないことは考えられない。パウロは有罪判決を受けて処刑されたのであろう。ルカはそのことをこれまでの文脈の中で暗示してきた(使徒20:23-24、同21:13他)。
−使徒20:17-25「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた・・・私は、"霊"に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けている・・・そして今、あなたがたが皆もう二度と私の顔を見ることがないと私には分かっています。私は、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです」。
・パウロはローマで処刑されたのであろう。しかし後継者たちは語ることを止めなかった。パウロの後継者たちの語りがエペソ書やテモテ書という「パウロの名による書簡」として残されている。福音はパウロの死を超えて語り継がれていった。イエスの後にペテロやパウロが起こされ、イエスの福音を語り続けた。使徒たちもローマで処刑されたが、次に続く人々が「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続け」た。やがて使徒たちの処刑地の上に教会が建てられ、そのローマ教会がキリスト教の中心になって行く。どのような力も福音を沈黙させることは出来なかった。福音は「キリストの弟子」を作り続け、彼らが語り続けてきたからだ。そして今、私たちがその役割を継承して語り続けていく。使徒言行録は私たちによって書き続けられていくのである。
-中村博武・使徒言行録注解あとがき「使徒言行録は過去の物語である。それはこの世の支配の中で、信仰によってあるべき世界を呼び起こし、その世界を目指してきた人々の物語である。その背後に意味と一貫性を与えている活動主体は神である。この物語は復活の主が今も生きて働いていることを証しすることにより、私たちに新たな世界観を提示し、新たな現実を開示し、私たちの人生を変革する力を持つ」。

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