1.荒野の試み
・イエスがバプテスマを受けられた時、天から声があった「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。自分がメシアであると自覚されたイエスは、何をすべきかを知るために、霊により荒野に導かれた。
−ルカ4:1-2「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」。
・荒野でささやく声がイエスを誘惑した「メシアであればこの石をパンに変えて、人々を養ったらどうだ」。栄光のメシアになれとの誘惑である。イエスはこれを拒否された。
−ルカ4:3-4「悪魔はイエスに言った『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ』。イエスは、『人はパンだけで生きるものではないと書いてある』(申命記8:3)とお答えになった」。
・貧しい人もパンを食べることのできる社会を作ろうという運動は、歴史上繰り返し現れて来た。共産主義者は社会の不正構造が人々の口からパンを奪っていると考え、権力を倒し、理想社会を作ろうとしたが、出来上がった社会は怪物のような全体主義国家だった。フランス革命も貧しい人々が立ちあがった運動だったが、結果は血で血を洗う権力闘争に終ってしまった。「人はパンだけで生きるのではなく、神によって生かされていること」を知らない限り、人間同士は争い続け、平和は与えられない。
・第二の誘惑は「王になってこの世を支配せよ」というものであった。民衆はローマからの解放を望んでいる、ローマに反乱を起こし、この世に神の国を作れとのささやきである。イエスはこれも拒否された。
−ルカ4:5-8「悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、みんなあなたのものになる』。イエスはお答えになった『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある』(申命記6:13)」
・人々がメシアに求めていたのは、ローマからの独立を勝ち取る指導者だった。イエスの時代、多くのメシア自称者が立ち、ローマに抵抗した。紀元66年熱心党がローマに対する武力蜂起を行い、イスラエル全土が熱狂的にこの運動に加わり、独立を目指すユダヤ戦争が始まった。戦争はローマに制圧され、紀元70年エルサレムは破壊され、国は滅びた。この戦争に、生まれたばかりの教会は参加せず、エルサレムを脱出した。「この世の支配権をあげよう」という悪魔の誘惑に従った人々は、国を滅ぼしてしまった。
・第三の試みは「与えられた力を自分のために用いよ」への誘惑であった。イエスは拒否された。
−ルカ4:9-12「『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ・・・神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。また、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』。 イエスは『あなたの神である主を試してはならないと言われている』(申命記6:16)とお答えになった」。
・人々はイエスに繰り返し、しるしを求めた。十字架にかけられたイエスに対して人々は言う「神の子なら自分を救え。そして十字架から降りて来い」(マタイ27:40)。イエスは拒否され、十字架上で死なれた。しかし、弟子たちは復活のイエスに出会うことにより従う者とされていく。人はしるしを見て変えられるのではなく、神が自分たちを愛され、そのために行為されたことを知る時に、変えられていく。現代の私たちもしるしを求める「私の病気を癒して下さい」、「私を苦しみから救って下さい」、「私を幸福にして下さい」。そして言う「そうすれば信じましょう」。その時、私たちは信仰を取引の材料にしている。
・精神科医でカトリック作家、加賀乙彦は「悪魔のささやき」(集英社新書)の中で、「悪魔のささやきというものが実際にあるのではないか」と述べる。自殺未遂者の対面調査を行った時、ほとんどの人が「命を絶とうとした時、悪魔がささやいた」と述べていた。自殺を諮る人の多くはうつ状態になり、自殺願望を持つようになり、それがあるきっかけで実行に移される。そのきっかけが「悪魔のささやき」ではないかと著者は語る(「テーブルに目をやったら果物ナイフがあって、気がついたら自分の胸に突き刺していた」、「歩道橋の上で、生きていても仕方がないと考えていたら、いつの間にか歩道橋の手すりを超えていた」)。彼は語る「この三つの誘惑は、当時聖書を書いた人々の心に深く刻まれていた何かの出来事の比喩ではないか。イエスの時代も、そして今も、悪魔が人間に囁きかけてくる時は、私たちの欲望を必ず刺激してくる。そのことを実にうまく表現した比喩だと思う」。
2.ガリラヤでの宣教の始まり
・イエスの行われた病の癒しや悪霊の追い出しに人々は驚き、イエスの評判は地方一帯に広がって行った。イエスは故郷ナザレに帰られた。人々は興奮してイエスを迎えた。イエスは安息日に会堂にお入りになり、イザヤ書61:1-2を読まれた。
−ルカ4:17-19「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・人々はイエスが奇跡を起こされるものと期待していた。しかし、イエスは静かに語られたのみであった。
−ルカ4:20-21「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した』と話し始められた」。
・当時のユダヤの人々は約束の成就を待ち望んでいた。ユダヤはローマの植民地であり、ローマへの税金とローマが任命した領主への税金の二重の税の取り立てがあり、もし払えなければ妻や子を売り、それでも払えなければ投獄された。多くの人々は自分の土地を持たない小作人だった。地主は収穫の半分以上を徴収し、小作人の手元に残るものは少なく、豊作の時でさえ食べてゆくのがやっとで、天候が悪く凶作になれば飢え、病気になれば医者にもかかれず死ぬばかりの生活だった。だから彼らはひたすら救い主を待ち望み、この貧しい生活が変えられる日を待望していた。その彼らが注目する中で、イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と話された。「救いが今ここに来た」と宣言された。しかし、人々は不満だった。人々が求めたのは病の癒しであり、貧からの解放だった。イエスは神の言葉に信頼せよと言うだけで何も具体的なしるしを行わない。人々はつぶやき始めた。
−ルカ4:22「この人はヨセフの子ではないか」。
・イエスは彼らに言われた「救いは信仰によって与えられる。その信仰が無ければ救いは無い」と。
−ルカ4:23-24「イエスは言われた『きっと、あなたがたは、医者よ、自分自身を治せということわざを引いて、カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれと言うにちがいない』。
そして、言われた『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』」。
・人々は怒り始めた。彼らはイエスからもらうことを期待し、与えないイエスを殺そうとした。人が求めるのは“現世利益”であり、それを与えないイエスを人々は十字架につける。荒野の試みがここにもある。
−ルカ4:28-29「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」。
・多くのクリスチャンたちは教会の中に神ではなく、人を見てつまずく。ナザレの人々がイエスの中に、「神の子」ではなく、「ヨセフの子」を見たのと同じだ。ナザレの聴衆は私たちだ。そのことを知った時、「今日救いがこの家を訪れた」(ルカ19:9)という声が聞こえてくる。
-2コリント12:9「すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
3.悪霊払いと巡回宣教
・イエスの時代、自分で自分を制御できない精神的な病は悪霊の仕業と信じられていた。
−ルカ4:31−37「イエスはガリラヤの町カフアルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた・・・会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。『ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。イエスが、『黙れ、この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷もおわせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉は一体何だろう、権威と力とをもって汚れた霊に命じると出て行くとは。』こうしてイエスのうわさは辺り一帯に広まった、」
・カフアルナウムの人々はイエスに自分たちから離れないよう頼むが、イエスは「福音は広く伝えられるべきだ」と語り、宣教のために出て行かれた。
−ルカ4:40−41「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いて癒された・・・朝になるとイエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を述べ伝えなければならない。私はそのための遣わされたのだ。』そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」