江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年9月9日祈祷会(使徒言行録3:1-26、神殿での癒しとペテロの説教)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.ペトロ、足の不自由な男を癒す

・敬虔なユダヤ人は一日三度、朝の九時、昼の十二時、午後三時の祈りの時を守っていた。彼らは、どんな場所で祈りを捧げようとも神は聴きたもうと信じていたが、神殿で捧げる祈りは、とりわけ神に聴かれると信じていた。ペトロとヨハネもユダヤ人の祈りの習慣に従い、祈りを捧げるため神殿に上って行った。
−使徒3:1「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。」
・神殿の「美しい門」の傍らで、生まれながら足の不自由な男が参詣者に物乞いしていた。物乞いする者にとって神殿は実入りの多い場所だった。神殿で礼拝する誰もが敬虔になり、恵まれない者への憐憫の情が生じ、惜しみなく喜捨する気持ちになるからである。
―使徒3:2「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」
・足の不自由な男は境内に入ろうとするペトロとヨハネに喜捨を乞うた。二人は立ち止まった。物乞いは何かもらえると期待したが、何ももらえず、予想もしない言葉が返ってきた。
−使徒3:3―6「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『私たちを見なさい』と言った。その男が何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」
・足の不自由な男はたちまち立ち上がった。彼は歩き回り、躍りあがり神を讃えて歓喜した。
−使徒3:7-8「そして右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、足やくるぶしがしっかりして、踊り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり、躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」
・神殿に詣でていた人々は、足の不自由な男が、飛び跳ねているのを見て驚き、目の前に起こったことがにわかに信じられず、茫然と見ているだけだった。
−使徒3:9-10「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の『美しい門』のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身の起こったことに我を忘れるほど驚いた。」
・初代教会は宣教し、施し、癒し、そのことを通して多くの人が教会に加わって行った。現代の教会はこの初代教会の持っていた力を失ってしまった。今日では癒しは医者の仕事であり、施しは社会福祉事務所が担当し、教会は言葉だけの存在になり、力を失っている。困難の中にある他者の手助けをすることは今でも重要な教会の業だ。他者に関心を持つことこそ伝道だ。
―ヤコブ2:15-17「兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう・・・行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。
・私たちはペテロのように、奇跡を行う力はない。私たちが祈っても病気の人は治らないだろうし、人々の困難が除かれることはないだろう。しかし私たちは病気の中にも平安を見出すことはできるし、困難の中で待つことが出来る。私たちは「どうにもならない現実の中でも希望を持ち続ける」ことのできる信仰を与えられている。そしてこの宝物を私たちは他者に差し出すことは出来る。その宝物は「信じて受ける者を変容する力」であり、「人の思いを超える力」なのだ。「出来ることを行う勇気、出来ないことを断念する平静さ、何が出来るか出来ないかを識別する知恵」(ラインホルド・ニーバーの祈り)が私たちには与えられており、それこそが世の人々が癒す力を持つ私たちの宝物なのではないだろうか。

2.ペトロ、神殿で説教する

・ペトロとヨハネと癒された男の一行は、神殿に集まった人々の好奇心を十分にそそり、物見高い群衆となり、集まった。群衆が自分たちを見つめているのに気付いたペトロは、好機を逃さず群衆に説教を始めた。
−使徒3:11-12「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、『ソロモンの回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った。『イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。』」
・ペトロは、まず、「イエスをピラトに引き渡し、殺してしまったのは、あなたたちだ」と民の罪を明らかにしたうえで、復活のイエスを証言した。
−使徒3:13-15「『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、私たちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しょうと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちはこのことの証人です。』」
・「その復活のイエスの名が、この足の不自由な男を癒した」とペトロは語り、「あなたたちは無知だとはいえ、イエスを殺してしまったのだから、罪を悔い改めて祈るべきである」と群衆に迫った。
―使徒3:16-19「『あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒したのです。ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったためであったと、私には分かっています。しかし、神は全ての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて祈りなさい。』」
・ペトロの言う、民の罪についての預言はイザヤ書52―53章に記されている。
−イザヤ53:8「捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」。
・二人の語った言葉により、5千人の者が信じた。教会は新しい人々を得た。伝道する教会は成長する。
―使徒言行録4:4「二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」。

3. 説教のまとめ

・「やがて終末が来る。それはイエス再臨の時である」とペテロは語り続ける。その時には万物が更新されるであろうと語る。引用は申命記18:15である。
−使徒3:20-23「『こうして主のもとから慰めの時が訪れ、主があなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。モ−セは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同朋の中から、私のような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』」
・ペトロはユダヤ人たちに先祖のアブラハムとその契約を思い起こせと語る。
−使徒3:24-26「『預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、いまの時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたと結ばれた契約の子です。「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。』」
・マザーテレサが行ったことは病気の治癒ではない。ある時、彼女は言う「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで、体はネズミにかじられ、ウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、 thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」 。マザーテレサは「死に行く人を看取ったのであって、治したのではない」ことに留意した時、癒しは治癒ではなく、共感であることがわかる。私たちは「治癒」と「癒し」を峻別することが必要であると思う。癒しが為される時、その結果治癒したかしないかは、そんなに大きな問題ではない。「ある者は治癒されて喜び、別の者は治癒されなかったが生きる勇気を与えられた」、それが大事なのではないか。

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