1.私の言葉を思い出せと言われるイエス
・ヨハネ15−17章はイエスの死を前にした弟子たちへの決別の言葉だ。イエスが世を去った後、弟子たちはユダヤ教の会堂から追放され、迫害を受ける。イエスは「困難の時が来たら、私の言葉を思い出し、困難を乗り越えよ」と弟子たちを励まされる。
−ヨハネ16:1‐4「『これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは父をも私をも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、私が語ったということをあなたがたに思い出させるためである。初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなたがたと一緒にいたからである。』」
・イエスの時代には、弟子たちがその信仰の故に会堂から追放される事態は起こっていない。追放が始まったのは、キリスト教会の基盤が出来上がり、その勢力が強くなった紀元70年以降のことで、これは福音書記者ヨハネの時代を反映した記述である。ヨハネの教会において、信徒は異端として会堂から追放されていた。
−ヨハネ9:22「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。
2.聖霊を送ると約束されるイエス
・弟子たちは、刻々迫るイエスとの決別の悲しみに、心を打ちひしがれ、イエスの死と昇天の意味を知ろうともせず、聞こうともしなくなった。
−ヨハネ16:5‐6「『今私は、私を遣わした方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、「どこへ行くのか」と尋ねない。むしろ、私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。』」
・「私が世を去るのは、むしろ、あなたたちの為である」とイエスは言われ、「弁護者である霊をあなたたちに送り、霊があなたたちを内から支えるであろう」と弟子たちを励まされる。
−ヨハネ16:7‐8「『しかし、実を言うと、私が去って行くのはあなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。』」
・私たちが何かに頼っている間は、聖霊は来ない。私たちが病気になったり、事業に失敗したり、友に裏切られる時、私たちは頼る者がなくなり、神の名を呼ぶ。その時、聖霊が来る。聖霊が来れば、その方は、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
−ヨハネ16:9‐11「『罪についてとは、彼らが私を信じないこと、義についてとは、私が父のもとへ行き、あなたがたがもはや私を見なくなること、また、裁きとは、この世の支配者が断罪されることである。』」
・イエスは言われる「今、いかに言葉を尽して語っても、あなたたちは理解できないだろう。しかし、真理の霊が来ればあなたたちも悟る」と、弟子たちに霊の支援を約束される。
−ヨハネ16:12‐13「『言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。』」
・イエスは、十字架の死が最期ではなく、死に打ち勝ち、復活することにより、栄光を表わされる。そして、イエスの後に続く、従う者に栄光への道を開かれる。
−ヨハネ16;14‐15「その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものは、すべて私のものである。だから、私は、「その方が私のものを受けて、あなたが告げる」と言ったのである。』」
3.その時、「悲しみが喜びに変わる」
・イエスは「まもなくこの世を去る」と自分の死を予告された。弟子たちの心は不安と悲しみで満たされた。イエスはそのような弟子たちに、「私は帰って来る」と言われた。
−ヨハネ16:16‐18「『しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。』そこで、弟子たちのある者は互いに言った。『「しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」とか、「父のもとへ行く」とか言っておられるのは、何のことだろう。』また、言った。『「しばらくすると」と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのかわからない。』」
・イエスが去ると弟子たちは悲しむが、イエスを迫害した世、すなわち、ユダヤ人たちは喜ぶだろう。しかし、イエスの復活により、弟子たちの悲しみは喜びに変わる。
−ヨハネ16:19‐20「イエスは彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。『「しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」と、私が言ったことについて論じあっているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。』
・イエスは、十字架の死と復活を、女性の出産の苦しみと喜びに、例えて語られる。
−ヨハネ16:21‐22「『女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思いださない。ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。』」
・イエスは「私の名で何でも父に願えば、父が叶えてくださる」と、弟子たちを励まされる。
−ヨハネ16:23‐24「その日には、あなたがたは、もはや私に何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたが私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたが私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びに満たされる。』」
・十字架の悲しみは復活の喜びに変わる。小児の時の病気で、生涯寝たきりになった水野源三氏は、復活の喜びを自分の体験として語った。「悲しみは喜びに変わる」、それを私たちも経験する。
-水野源三「三十三年前に脳性まひになった時には神様を恨みました。それがキリストの愛に触れるためだと知り、感謝と喜びに変りました」。
4.イエスは既に世に勝っている
・イエスは例えではもう語らないと宣言される。例えは相手の理解の程度で使う間接的話法である。イエスと弟子たちの決別の時は迫り、もはや例えで語れるような悠長な時ではない。
−ヨハネ16:25‐26「『私はこれらのことを、例えをもって話してきた。もはや例えによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。私があなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。』」
・イエスは、弟子たちに改めて、愛と信仰の絆を確かめられる。
−ヨハネ16:27‐28「『父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。私は父のもとから出て世に来たが、今、世を去って父のもとに行く。』」
・イエスから信仰と愛の絆を教えられた弟子たちは、イエスに改めて信仰を告白する。
−ヨハネ16:29‐30「弟子たちは言った。『今は、はっきりお話しになり、少しも例えを用いられません。あなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます。』」
・イエスは弟子たちの信仰告白を聞き、彼らの信仰を受け入れ、彼らを祝福される。
−ヨハネ16:31‐33「イエスはお答えになった。『今、ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、私を一人きりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、私は一人ではない。父が共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。』」
・平安とは悩みのないことではない。そのような平安は悩みが来ればすぐに崩れる。平安とは悩みの中で平静を保ち、その悩みが喜びに変えられることを信じることである。
−マタイ10:28-31「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」