江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年2月4日祈祷会(ヨハネ福音書2:1−25、カナの奇跡と宮清め)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.カナの奇跡

・ガリラヤに帰られたイエスは、親族の結婚式に出席するため、弟子たちと一緒にカナへ行かれた。
−ヨハネ2:1-2「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」。
・婚礼でぶどう酒が無くなった。招待者の親族である母マリアはイエスに相談する。しかしイエスはその母に「婦人よ、私とどんな関わりがあるのですか」と言われた。どういう意味なのだろうか。
−ヨハネ2:3-4「母がイエスに『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた『婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません』」。
・ヨハネ福音書における「私の時」は神の栄光の時を指す。イエスは「祝宴のぶどう酒を用意する神の栄光の時はまだ来ていない」と答えられた。しかしマリアは落胆しない。息子が何とかしてくれると信じているからだ。彼女は召し使いたちにイエスの言いつけを聞くよう言った。
−ヨハネ2:5-8「しかし、母は召し使いたちに『この人が何か言いつけたら、その通りにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレス入りのものである。イエスが『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは『さあ、それをくんで世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使い達は運んでいった」。
・召し使いが水を満たしたのは、容量2〜3メトテレスのかめ6個だった。1メトレテスは約39リッター、2〜3メトレテスは100リッターもの水である。かめに水を満たして運ぶと、その水はぶどう酒に変わっていた。
−ヨハネ2:9-10「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。この水はどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った『誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』」

2.カナの奇跡の指し示すもの

・この話の中心は「ぶどう酒に変えられた水が清めの水であった」ことだ。当時のユダヤ人は外から家に帰ってきた時、「不浄を受けたのではないか」といつも心配し、汚れを洗うために大量の清めの水を必要とした(マルコ7:3-4)。イエスが水をぶどう酒に変えたことは、律法にがんじがらめにされた生活から、神が与えて下さる喜びを感謝していただくことを教えるためであった。これはイエスが行われた最初の奇跡だった。ヨハネは奇跡を「しるし」と呼ぶ。
−ヨハネ2:11-12「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。」
・聖書において、婚礼の宴は「神の国の到来のしるし」として描かれる。祝宴の酒が無くなるとは、「喜びの終焉」を意味する。「婚礼の楽しみを中断させることは神の御心ではない」、だからイエスは水をぶどう酒に変えられ、その結果、喜びは続いた。イエスは「神の国が来た」として宣教を始められた。それは「喜びと祝福の時が来た、それを受け入れなさい」ということだ。「ぶどう酒は人の心を喜ばせるもの」(詩篇104:15)、父なる神はその喜びを配慮される方だ、だからイエスは「水をぶどう酒に変えられた」とヨハネは物語る。イエスの教えは禁酒禁煙的な禁欲の強制ではなく、解放を告げる良き知らせなのだ。
-マルコ1:14-15「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」。

3.宮清め

・2章後半からヨハネはイエスの宮清めの物語を始める。神殿には犠牲として捧げるための牛や羊、鳩を売る店があり、ローマやギリシアの貨幣をユダヤ通貨に両替する店があった。しかし、そのことが神殿を「祈りの家」ではなく、「商売の家」に変えていた。イエスはこのような有様を見て、怒りを発せられ、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、言われた「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない」。
―ヨハネ2:13-17「ユダヤ人の過ぎ越し祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者に言われた『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない』。弟子たちは『あなたの家を思う熱意が私を食い尽す』と書いてあるのを思いだした。」
・温和なイエスが何故、このように怒られたのか。ヨハネはそれを、「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」(詩篇69:10)と説明した。イエスの行為に怒った祭司たちはイエスに迫って言う「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」。祭司の言葉に対して、イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われた。
―ヨハネ2:18-22「ユダヤ人たちはイエスに『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか』と言った。イエスは答えて言われた『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』。それでユダヤ人たちは『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われたのはご自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活された時、弟子たちは、イエスがこう言われたことを思い出し、聖書とイエスが語られた言葉とを信じた」。

4.宮清め物語の意味するもの

・ヨハネ福音書はこの記事をイエスの宣教の初めに起こった出来事として記すが、他の三福音書では、これを受難直前に起こった出来事として記述する。マルコでは、ガリラヤ伝道を終えられたイエスがエルサレムに日曜日に入城され、翌月曜日に宮清めをされたためにユダヤ当局との対立が激化し、木曜日の最後の晩餐の後に捕らえられ、金曜日に処刑される、その受難週の中の出来事として描く。何故ヨハネはこの宮清めの出来事を宣教の初めの出来事として記述するのだろうか。
・イエスの行為は「宮清め」と呼ばれるが、実はイエスは宮清め=神殿改革を目指されたのではなかった。出来事の真意は神殿改革ではなく、神殿祭儀そのものの意味を問うものだった。神殿を商売の家にしているのは実は動物商や両替商ではなく、彼らに神殿で商売をさせてその利益を吸い上げている、大祭司を初めとする神殿貴族たちだった。彼らは本来、民の罪を贖うための贖罪制度(動物犠牲を身代わりとして罪を清める)を、お金を払うことで流れ作業のように礼拝が行われる制度に変え、そのことによって経済的利得を得る手段にしてしまっていた。「信仰が人を養う制度になっている。それはおかしいではないか」とイエスは指摘されたのだ。
・イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われた。ヨハネはここにイエスの十字架死の意味を説いている「あなた方は罪を清めるために動物犠牲が必要だとして祭儀制度を造り、神殿維持のために必要だとして神殿税を集めている。しかし私が人々のための贖いとして死ぬのだから、もう犠牲は不要であり、神殿も不要だ」。エルサレム神殿はこの出来事の40年後、紀元70年にローマの軍隊により破壊され、その後再建されることはなかった。
・ヨハネ教会はユダヤ教からの迫害に苦しんでいた。その教会にヨハネは、「祭儀と律法を中心とするユダヤ教はもう役割を終えた。イエスの受難と復活を通してイエスが生きた神殿となられた」ことを伝えるために、福音書の初めにこの宮清めの記事を持ってきた。受難と復活という視点からヨハネ2章全体を見たとき、2章前半の「カナの婚礼の物語」も、祭儀のための水が、イエスによってぶどう酒に、十字架の血に変えられて、もう祭儀の水は不要になったとされる。「イエスが贖いの犠牲として死んで下さったので、私たちはもう祭儀の水は不要であり、神殿での犠牲奉献もいらないのだ」とヨハネは教会の人々に伝えている。

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