1.イエスと洗礼者ヨハネ
・イエスはエルサレムを離れて、ヨルダン川のほとりに行かれ、そこで人々に教え、悔い改めた者にバプテスマを施されていた。大勢の人々がイエスのもとに集まり、その数は、前からヨルダン川のほとりでバプテスマを施していたヨハネを大きく超えるようになった。
-ヨハネ3:22-24「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、バプテスマを授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンでバプテスマを授けていた、そこは、水が豊であったからである。人々は来て、バプテスマを受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかった」。
・並行していたイエスとヨハネのバプテスマ運動に差が生まれた。イエスの方へより多く人が集まるようになったのである。イエスの勢いに危惧を感じたヨハネの弟子たちとユダヤ人の間に論争が起こり、彼らはヨハネに意見を求めた。
-ヨハネ3:25-26「ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人の間で論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ、ヨルダン川の向う側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、バプテスマを授けています。みんながあの人の方へ行っています。』」
・ヨハネは弟子たちに語った「私はメシアではなく、メシアの前を行き、道を開くのが使命である。その使命を果たした今、私はとても嬉しい。その喜びを例えれば、花嫁の到着を待つ花婿が喜びに包まれているが、その花婿の介添人もまた花婿と喜びを分かちあうという心境である」とヨハネは語った。
-ヨハネ3:27-30「ヨハネは答えて言った。『天から与えられなければ、人は何も受けることはできない。私は「自分はメシアではない」と言い、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰えねばならない。』」
・洗礼者ヨハネは、イエスに先立って、人々に「悔い改め」を呼びかけ、バプテスマを施していた。その評判を聞いて、イエスは故郷ナザレを出て、ヨハネのもとに行き、バプテスマを受けられた。やがて、イエスは何人かの弟子を連れて独立され、新たな宣教を開始された。イエスはヨハネの弟子だった。しかし、イエスの力ある業と言葉に魅了されて、多くの民衆はイエスの所に集まり、ヨハネのもとに来る人々は少なくなった。それで、ヨハネの弟子たちは怒った。彼らの感情の中にあったのは「妬み」である。世の人々は自分が主役を演じることを望み、脇役であることに甘んじようとしない。しかし、誰もが主役になろうとする時、そこに争いが起きる。私たちも言う「私の方が頑張ったのに」。ヨハネの弟子たちが持った感情は、私たちも持っている感情である。ヨハネの弟子たちは、神の栄光よりも人の栄光を求めた。しかしヨハネはそうではなかった。「自分の役割はイエスを指し示すことだと理解していた」とヨハネ福音書は語る。
2.天から来られる方
・ヨハネ福音書は、「イエスこそが神が遣わされた御子である」と証ししたが、だれもその証しを受け入れようとしなかったと語る。ここでは洗礼者ヨハネの言葉がいつの間にか、ヨハネ福音書著者の説教に変わっている。ヨハネ福音書はイエスの伝記というよりも、ヨハネ自身の信仰告白を記す文書である。
-ヨハネ3:31-33「『上から来られる方は、すべての者の上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべての者の上におられる。この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。』」
・イエスは神から委ねられた言葉を語った。それゆえ、「御子を信じる者には永遠の命を与えられるが、信じない者には、神の怒りがその上に降る」とヨハネ福音書の著者は説く。「人間は直接に神を知ることは出来ず、御子を通してのみ神を知る」とのヨハネの信仰がここにある。
-ヨハネ3:34-36「『神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。御子を信じる人はすべて永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命に預かることがないばかりか、神の怒りがその上に留まる。』」
3.イエスとサマリアの女
・イエスの伝道の成功が、皮肉にもイエスをガリラヤへ退かせることになった。イエスのもとへ集まる人々が次第に増え、ファリサイ派の人々の反感も増していった。イエスは、彼らとの衝突を避けるため、ガリラヤへ退こうとされ、旅の途次、サマリアを通過された。サマリアはユダヤとガリラヤの間にあった。
-ヨハネ4:1-4「さて、イエスがヨハネより多くの弟子をつくり、バプテスマを授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、(バプテスマを授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちである)、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。」
・正午頃、イエスはサマリアの町に着いたが、疲れを覚え、ヤコブの井戸の傍らで休憩した。ヤコブが叔父ラバンの地パダン・アラムから故郷への帰途、立ち寄ったシケムで宿営して、そのとき掘った井戸が、サマリア人の間で「ヤコブの井戸」と呼ばれていた(創世紀33:18−20)。
-ヨハネ4:5-6「それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」
・ヤコブの井戸に水を汲みに来たサマリアの女に、「水を飲ませてほしい」とイエスが頼む。女は「何故ユダヤ人のあなたが、サマリア人の私に頼むのですか」と訝しがった。ユダヤ人はサマリア人と絶交していたから、女がそう言うのは当然だった。サマリアは北王国イスラエルの首都であったが、紀元前721年アッシリアに攻略されて滅び、アッシリアは各地から外国人をサマリアに移住させ、人種混合政策をとった。その結果、ユダヤ人にとっては許せない多神教が、その地に生まれたのである(列王下17:24−41、彼らはサマリア派と呼ばれ、エルサレム神殿ではなくゲリジム山の神殿で礼拝していた)。
-ヨハネ4:7-9「サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは『水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町へ行っていた。すると、サマリアの女は『ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである。」
・イエスがサマリアの女に水を求めたのは、話のきっかけを作るためだった。イエスはサマリアの女に「生きた水を与えよう」と言われた。
-ヨハネ4:10-12「イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』女は言った。『主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。』」
・「この水を飲んだ者はだれでも渇く」とイエスは女に言われ、続けて「私が与える水を飲む者は決して渇かない。その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われた。女は理解できなかった。しかし、女の求道心をしだいに呼び覚ましていった。
-ヨハネ4:13-15「イエスは答えて言われた『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧きでる。』女は言った『主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。』」
・イエスのサマリア伝道はヨハネ福音書だけが記す。ヨハネ教団の中にはサマリア派からの改宗者がいたのではと推測されている。イエスとサマリアの女の対話には、福音を求めていない者への伝道の一つのあり方が示されている。伝道は常に伝える対象がはっきりと定まっているとは限らない。また求める側もこのサマリアの女のように、何も求めていない場合もある。さらに、漠然とした不信と偏見に気づいていな場合もあるかもしれない。しかし、そのような人々でも、自分では気づかない、心の深いところで神を求めている。イエスは、サマリアの女の自分では気づいていなかった求道心を、呼び覚ましたのである。