1.洗礼者ヨハネ、殺される
・ヘロデ大王の死後、四人の息子が領土を分け合った。ガリラヤとペレアの領主になったのはヘロデ・アンティパスであった。アンティパスによるガリラヤとペレアの統治は、前4年から39年までの43年間続いた。アンティパスは彼の領地内で活動していたイエスの評判に神経を尖らせていた。彼は洗礼者ヨハネを殺し、イエスを洗礼者ヨハネの生れ変わりだと思い込み、ヨハネを処刑した罪悪感を抱いていたからである。彼は密かに自らの罪に怯えていた。
−マタイ14:1−5「そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。『あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。』実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕えて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆の批判を恐れた。民衆はヨハネを預言者と信じていたからである。」
・アンティパスは自分の異母弟フィリポの妻ヘロディアと不倫の末、自分の妻と離婚、ヘロディアと再婚した。洗礼者ヨハネはそのアンティパスを、白昼下、名指しで非難した。ヨハネには相手が領主だからという恐れはなかった。「兄弟の妻とは結婚してはいけない」と律法に規定されているのをアンティパスが知らないわけがなく、ヨハネの非難に反論できなかった。窮地に追い込まれたアンティパスは、口封じのため、ヨハネを牢獄に閉じ込め民衆から隔離していた。彼はヨハネを消し去りたいと思っていたが、民衆の批判を恐れ、命を奪うことはできなかった。
-レビ18:16「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである」。
・そのアンティパスに思いがけない機会が到来した。それはアンティパスの誕生祝いの宴で起こった。妻ヘロディアの娘サロメの踊りが彼を喜ばせ、「願うものは何でも与えよう」と誓ってしまった。母ヘロディアにそそのかされた娘は、洗礼者ヨハネの首を所望した。しかも、その首を盆に載せてほしいとまで言ったのである。
-マタイ14:6-8「ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、『願うものは何でもやろう』と誓って約束した。すると、娘は母親にそそのかされて、『洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場で下さい』と言った」。
・アンティパスに躊躇はあったが、宴席の客の前で娘に約束したことは、領主の権威にかけても果たすしかなかった。ヨハネの首を娘に所望させたのは、娘の背後で指図したヘロディアであった。彼女はヨハネに対し激しい憎しみを抱いていた。それにしても、ヨハネの首を所望するのは不気味である。娘が「それを母親の所へ持って行った」という記述は、事件のすべてがヘロディアの陰謀であったことを物語っている。
-マタイ14:9-11「王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるよう命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた、その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った」。
・すべてが終わった後、ヨハネの弟子たちは、師の遺体を引き取り、葬った。遺体引き取りの時、弟子たちは心の底から自らの無力さを感じたのではないだろうか。彼らは正義が邪悪に破れるのを目前にして、何もできなかったのである。その後、彼らはイエスに事の次第を報告した。
−マタイ14:12「それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。」
2.五千人に食べ物を与える
・ヨハネの弟子たちから、ヨハネの死を報告されたイエスは、舟に乗り対岸の淋しい場所へ退いた。一人静かに祈るためであった。ヨハネの死はイエスと弟子たちにとって大きな衝撃であった。自分たちにも同じように迫害が及ぶと覚悟した。群衆はイエスが退かれることを聞き、方々から群れ集まり、イエス一行の後に従った。イエスは付き従う彼らの中に、病んでいる者がいるのを見て、深く憐れみ、癒された。やがて夕刻になり、食事時が来たので、群衆を解散させ、それぞれに食べ物を調達させるよう、弟子たちがイエスに提案した。そこは人里を離れた場所であり、食糧調達には困難な場所であった。
−マタイ14:13−15「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』」
・しかし、イエスの返事は弟子の意表を突くものだった「あなたたちが彼らを食べさせなさい」。弟子たちは驚きイエスの言葉を遮った「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません」。弟子の言葉を聞いたイエスは、パンと魚を手に取り、天を仰いで祈り、パンを裂き群衆に配らせた。五つのパンと二匹の魚は群衆の空腹を満たし、残りのパン屑は十二の籠いっぱいになった。食べた者の数として男五千人があげられているが、女子供の数は省かれている。成人男子の数だけ数えるのが当時の慣習であった。
−マタイ14:16−20「イエスは言われた。『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』イエスは『それをここに持って来なさい』と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚をとり、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。そして、残ったパンの屑を集めると十二の籠いっぱいになった。食べた人は女と子供を別にして、男は五千人ほどであった。」
・現代人はこの奇跡に納得できる解釈を求める。その代表的なものが、子供が差し出した五つのパンと二匹の魚に共感し同調した群衆の中の有志が、次々にパンなどの食料を差し出したので、全員が食べられたとの解釈である。多分、そうであったのだろう。その理解から、私たちは、今持っているものを惜しみなく、差し出し、共に生きることを願う。イエスは群衆の中から、共に生きるための隣人愛の精神を導き出した。それこそがまさにイエスの起こした奇跡なのである。
・教会が主の晩餐式を執り行うようになった経緯については二つの流れがある。一つはイエスと弟子たちの最後の晩餐を記念するもの、もう一つはイエスが群集と共に取られた荒野の食事に起源を持つ。イエスは集まった群集が食べるものもない状況を憐れまれ、手元にあったパンと魚で五千人人を養われた。大勢のものが一つのパンを食する、今日で言えば愛餐の食事が、主の晩餐式になったと考える人もいる。初代教会では、最後の晩餐と、荒野での共食が一つになって、主の晩餐式が執り行われた。弟子たちとの会食を強調する教会では主の晩餐式をクローズで行い(受洗者のみが参加する)、荒野の共食を重視する教会はオープンで行う(だれでも参加できる)。バプテストの群れでは、「どちらも正しく、どのように行うかはそれぞれの教会の選びだ」と認める。
-1コリント10:16−17「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。