江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年9月3日祈祷会(マタイによる福音書20:1−19、ぶどう園の労働者の譬え)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.「ぶどう園の労働者」の譬え

・イエスは民衆の身近にある出来事を材料にして、巧みに真理を織り込み、譬え話を語る。この「ぶどう園の労働者の譬え」もその一つである。譬えのぶどう園の獲り入れに雇われた日雇い労働者の話は、当時のぶどう園の労働事情が背景になっている。九月になるとパレスチナ地方のぶどうは一斉に熟し、すぐ雨季が来る。雨季になる前に穫り入れないと、ぶどうは腐ってしまうから、穫り入れには早く済ませねばならない。そこで一時的にたくさんの人手が必要になり、日雇い労働者を雇い入れるのである。
−マタイ20:1−2「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は一日に一デナリオンの約束で労働者をぶどう園に送った」。
・日雇い労働者とは農地を持たず、その日一日だけの労働を切り売りして暮らす貧しい労働者のことである。小作人以下の貧しい暮らしをする人々が当時たくさんいた。彼らは朝早くから広場に立って、ひたすら雇い主が現れるのを待つしかなく、賃金も雇い主の定めた額しか貰えなかった。ぶどう園の主人は夜明けごろ広場に出かけ、最初の労働者を日当一デナリオンで雇い、それでも人手が足りず、十二時と三時ごろにも出かけて労働者を雇った。さらに、午後五時になって広場に出かけると、まだ仕事につけず、あぶれた労働者がいたので、彼らも雇った。
−マタイ20:3−7「また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちも行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は十二時ごろと三時ごろにまた出て行き同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」。
・夕方仕事が終わって賃金を支払う時になり、主人は五時ごろから来て、ほんの少ししか働かなかった労働者から賃金を払い始め、しかも、あろうことか、最初に雇われた者も含めて、全員一律に一デナリオンずつ払ったのである。これは当時の慣習に反するものだった。働いた長さに応じて賃金が支払われるのが一般的であった。
−マタイ20:8−10「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで五時ごろに雇われた人が来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。」

2.後の者が先になり、先の者が後になる

・主人の賃金の支払いは世の常識を覆すものだった。長時間労働者の賃金は短時間労働者と同じだった。最初に雇われた労働者は黙っていなかった。最後に雇われた労働者と自分たちの賃金が、同じ一デナリオンでは納得できるわけがなかった。彼らは五時ごろ来た労働者が、一デナリオンずつ受け取ったのを見て、朝から働いた自分たちには、さぞかし、たくさんの報酬がもらえるだろうと期待したが、最後に雇われた労働者と同額の一デナリオンだったので期待が落胆に変わり、落胆が怒りに変った。
−マタイ20:11−12「そこで受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは』」。
・世の常識から見れば、彼らの怒りは当然である。しかし、彼らの怒りを聞いた主人は「あなたたちには約束通り一デナリオンずつ払ったではないか。自分の金をどう使おうが私の勝手ではないか」と、平然と開き直ったのである。
−マタイ20:13−16「主人はその一人に答えた『友よ、私は不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか。それとも、私の気前のよさをねたむのか』。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。
・このたとえの真意は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」というイエスの言葉にあるが、いろいろな解釈がある。先の者とはユダヤ人の宗教指導者、後の者は徴税人や罪人という理解もあり、先の者を子供の時に入信した者、後の者を老人になって入信した者などもある。信仰の評価は神がするもので、入信の後先や教会での役割の軽重などでは、評価できないということである。後の者が先になる例として、イエスといっしょに十字架に架けられた強盗の記事がある。
−ルカ29:39−43「十字架にかけられていた犯罪人の一人がイエスをののしった。『お前はメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ』。すると、もう一人の方が言った『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』。そして『イエスよ、あなたの御国にお出でになるときには、私を思い出してくささい』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる』と言われた」。
・「私はこの最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ」、この言葉に神の愛がある。主人は何故1時間しか働かない人に、1デナリオンを支払ったのか。それは1デナリオンがないと労働者と家族は今日のパンが買えないからだ。それは生きるための最低賃金なのである。マタイの記事によれば「5時から働いた人は怠けていたわけではなく、他の人たちと一緒に職を求めて朝から広場にいた」(20:7)、しかし体力がないと見られたのか、6時にも9時にも12時にも雇ってもらえなかった。父なる神は、この人々の悲しさを知って、彼らにもその日のパンを買うだけの賃金を下さった。最後の者も生きるために必要なものは与えられる、それが神の国の経済論理なのである。

3.イエス、三度、死と復活を予告する

・マタイは、「イエスはご自身の死と復活を弟子たちに知らせ、これからエルサレムで起こる受難を告知し、改めて覚悟をうながした」とする。ここでいう祭司長は14人からなる祭司群(エルサレム神殿では数千人の祭司たちがいたとされる)の長で、大祭司の職務を補佐していた。彼らは、イエスを捕えようとエルサレムで待ち構えていたのである。
−マタイ20:17−19「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長や律法学者らに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』」
・イエスが以前に弟子たちに行った受難予告では、「多くの苦しみを受け、殺され」(マタイ16:21)、「殺される」(マタイ17:23)などと述べられているものの、どのような苦しみを受けるのかについての、具体的な言及はなかった。しかし、ここでは、「人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけられる」と受難が具体的に記されている。多くの聖書学者はイエスの復活予告は、復活顕現後の弟子たちの信仰告白と理解する。弟子たちはイエスの十字架刑の時、逃げたが、イエスが復活するとは予想もしていなかったからである。
−ルカ24:8 -11「婦人たちは・・・墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話(イエスの復活)がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」。

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