江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年9月10日祈祷会(マタイによる福音書20:20−34、ヤコブとヨハネの母の願い)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.ヤコブとヨハネの母の願い

・エルサレムに登っていく途上で、イエスの弟子ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が、「イエス即位の時は、息子たちをイエスの左右の座に着く大臣に取り立ててほしい」と願い出た。母親のこの世的、出世欲望が露わになった。
−マタイ20:21「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが『何が望みか』と言われると、彼女は言った『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください』」。
・この出来事に関するマタイとマルコの記述には相違がある。マタイでは彼らの母親が大臣就任を願い出ているが、マルコではヤコブとヨハネの本人が願い出ている。マルコが原本でマタイはその編集であるとすれば、マタイが12弟子たちの名誉を守るために、申出者を本人から母親に変えたのであろう。
-マルコ10:35「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが』」。
・イエスは母親ではなく、息子たちに願いの内容を直接問いただし、「あなたたちは自分が何を求めているか、分かっていない」と言われた。イエスは彼らの願いを一旦受けとめた上で、「私が飲もうとしている杯を飲めるか」と反問した。彼らは即座に「飲めます」と答えているが、これはよく分かっていない、空返事である。なぜなら、イエスがこれから飲もうとしている杯は「十字架の死」なのである。その時の彼らに、その意味が理解できるわけがない。
−マタイ20:22−23「イエスはお答えになった『あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか』。二人が『できます』と言うと、イエスは言われた『確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる。しかし、私の右と左にだれが座るかは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ』」。
・ヤコブは使徒の中で最初の殉教者になっている(紀元43年ヘロデ・アグリッパ王により殺された)。
-使徒12:1−2「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」。
・ヨハネはその晩年には迫害の末に、パトモス島へ流刑となったと言われている。
-黙示録1:9「私はあなたがたの兄弟であり、共にイエスと共に結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証のゆえに、パトモスという島にいた」。
・イエスの「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる」という言葉は、二人の運命を知っていた初代教会が、イエスの言葉に補筆したものであろうと言われている。イエスに従うとはイエスと共に十字架を負うことである。その道は決して平坦ではないが、真の喜びに満ちている。弟子たちはイエスの復活後、そのことに気づいた。
-?ペテロ2:21-25「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は・・・十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。

2.人の子が自分の命を献げるために来たように

・母親を巻き込んでのヤコブとヨハネの抜け駆けの仕業は、たちまち他の十人の弟子たちに伝わり、彼らは憤慨した。弟子の中で誰が偉いかというライバル意識は、イエスからみれば愚かなことだが、集団の中では、よく起こることである。
-マタイ20:24「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄第のことで腹を立てた」。
・ライバル意識が弟子たちの間に存在することを知ったイエスは、弟子たちを呼ぶ集め「異邦人の間では偉い人たちが民を支配しているが、あなた方の間ではそうであってはならない」と諭し、皆の中で偉くなりたい者は、僕となり皆に仕えなさいと諭した。偉い人=ギリシャ語メガス、ラテン語マイヨール=大いなる者、ローマ皇帝の別称だ。イエスは「支配者とみなされているローマ帝国の者たちは諸民族の上に君臨し、皇帝が諸民族に対して権力を振るっている。だが君たちは決してそうであってはならない」とここで語っている。
−マタイ20:25−28「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためにきたのと同じように』」。
・教会におけるリーダーシップは「導くことではなく、仕えること」である。
-ヨハネ13:14-15「ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。

3.二人の盲人をいやす

・二人の盲人が癒された記事はマタイ9:7−21に既出している。二つの記事を同一の出来事の別の記録とする研究もあるが、状況は異なっている。エリコの城門に物乞いの盲人がたむろしていた。彼らの一人が門を通過するイエス一行に気づき助けを求めて叫び始め、他の盲人も呼応して助けを求めて叫んだのである。あまりの騒がしさに迷惑した群集は、彼らを叱りつけ止めさせようとしたが、彼らは止めるどころか、すます大声で叫んだ。盲人の呼びかけの「主よ」はイエスの権威を認める称号であり、「ダビデの子よ」はユダヤ世界のメシアとしての称号であった。イエスはどちらの呼びかけも拒否されなかった。
−マタイ20:29−31「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください』と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようしたが、二人はますます『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください』と叫んだ」。
・イエスは立ち止まり彼らに「何をしてほしいか」と尋ねられた。彼らの望みは目が見えることであり、イエスも先刻承知のはずなのに、あえて聞くのは彼らに信仰告白をさせるためであった。
-マタイ20:32-34「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか』と言われた。二人は、『主よ、目を開けていただきたいのです』と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」
・原本のマルコではこの盲人はバルティマイであるとされている。名前が知られていることはバルティマイがその後イエスの弟子となり、初代教会の人々は彼を知っていたことを示すものだろう。
-マルコ10:46-52「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた・・・イエスは『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は『先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』。盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」。

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