1.兄弟への忠告
・罪を犯した兄弟に対する対処法をマタイはここで教えている。教会内で起こった様々の紛争に対してマタイはイエスの言葉を借りて人々に勧告する。マタイは、「兄弟があなたに対して罪を犯したら、まず二人だけのところで忠告しなさい」と勧める。兄弟の罪を外部に漏らさずその体面を傷つけず、事を二人の間だけで穏便に済ませようとする配慮である。忠告を兄弟が受けいれて反省し、悔い改めれば兄弟の関係を失わなくて済む。兄弟を失わないことは「兄弟を得たことになる」。第一段階である。
−マタイ18:15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。
・それで終わらない場合、第二段階の対処法になる。当事者だけでなく、二人または三人の証人を立てて話し合う。この話し合いは、申命記が出典になっている(申命記19:15「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」)
−マタイ18:16「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」。
・それでも聞き入れない場合は最終段階となり、公の場所である教会へ申し出る。「申し出なさい」というのは、公表して教会の会衆の判断に委ねなさいということである。その時には教会の全員が対処の責任を負う。しかし、そこまで努力を重ねても、「教会の言うことも聞き入れない」ときもある。その時は、その人を「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。すなわち、交わりを断ち、教会から追放しなさい、ということになる。その先がない、最終段階なのである。
−マタイ18:17「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。」
・この話は「九十九匹と一匹の羊のたとえ」に続く物語である。一匹のため最大限の努力をするが、努力の限界に達した時は断念せよ、ある時には断念することが必要なのである。ニーバーの祈りがそれを示す。
−ラインホルド・ニーバーの祈り「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。
2.地上でつながれることは天上でもつながれる
・18節以下は前記のたとえの解説である。「つながれる」「解かれる」は初期キリスト教において、ある事柄が律法で許されているか、禁じられているかを判断する基準であり、また律法に背いたと疑われた者が有罪か無罪かを決定する基準でもあった。「つながれる」「解かれる」は神の御意が天と地を貫いて、すべてを支配していることを意味している。マタイの理解では、天と地をつなぐ権威はイエスからペトロに与えられている(マタイ16:18−19)。ここでは、その鍵はペテロの後継である教会に与えられている。それゆえに、教会に問題がある時は、二人または三人がイエスの名によって祈り願う時、イエスがその中にいて教会を導き、目的を遂行させるのである。
−マタイ18:18−20「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」
3.「仲間を赦さない家来」のたとえ
・イエスは徹底した赦しを説かれた。ペトロがイエスに、「私に罪を犯した者を七回まで赦すべきでしょうか」と問うた。ペトロは「それで十分である」というイエスの誉め言葉を期待していたのかも知れない。しかし、ペトロの想像をはるかに越えた、「七の七十倍まで赦しなさい」とイエスは指示し、「仲間を赦さない家来」のたとえを語り始めるのである。
−マタイ18:21−22「そのときペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』。イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。
・「仲間を赦さない家来」のたとえでは、王が家来に一万タラントンの返済を求めた所から話が始まる。一タラントンは千デナリオンで成り、一デナリオンは当時の労働者一日の賃金、一タラントンはその千日分の賃金であった。一万タラントンはまさに空前の金額であった。王の家来で一万タラントンの使い込みができる立場の者は、地方総督級の税の取り立てができる立場の者だったと考えられるが、当時のユダヤ領主は六百タラントンくらいの税収があったと伝えられているから、イエスのたとえの桁は途方もなく大きな金額だった。それなのに王はこの負債を免除する。王の家来が帳消しにしてもらった一万タラントンは、当時の労働者が十六万年働いて得られる賃金である。このたとえは途方もなく大きな無限の赦しを表している。王の家来の一万タラントンという使いこみは、彼が到底弁償できるはずがない大金だから、彼はひれ伏して赦しを乞うしかない。
−マタイ18:23−27「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するよう命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部返済します』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、彼の借金を帳消しにしてやった』」。
4.人を赦さない者は赦されない
・物語は続く。第二の場面では、一万タラントンという巨額の負債を帳消しにしてもらった家来が、立場が逆になり自分が債権者になると、わずか百デナリオンの負債も赦さなかったという話である。百デナリオンは当時の労働者が三か月ぐらい働けば稼げた金額であった。家来が王にしたように、負債者がひれ伏して、赦しを乞うても家来は赦すどころか、首を絞めて痛めつけ、あげくに牢にぶちこんでしまった。
−マタイ18:28−30「ところがこの家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して『どうか待ってくれ、返すかから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」。
・負債者の仲間はこれを見て心を痛め、王に訴え出る。王は激怒し、この不埒な家来を捕え、一万タラントンを返済するまでは赦さないと彼を牢に入れた。贖いきれない大きな罪を神の憐れみで赦されたことを忘れ、兄弟の小さな罪を赦さない忘恩の行為が、どれほど非道で罪深いかを、このたとえは教えている。兄弟の罪を赦せなくてより罪深くなるのは、赦されなかった兄弟ではなく、赦せなかった者の方である。王にかけてもらった憐れみを忘れ、兄弟を赦すことができなかった王の家来は、神の赦しを得られない。人は自分が神に赦されている恩寵を忘れてはならないのである。
−マタイ18:31−35「仲間たちは事の次第を見て非情に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、その主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるだろう」。
・人を裁くな、イエスが繰り返し教えられたことである。
−マタイ7:1-5「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。