江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年7月23日祈祷会(マタイによる福音書17:22−27、二度目の受難予告と神殿税)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.二度目の受難予告

・イエスは前にフィリポ・カイザリアを旅した時、弟子たちに自らの受難を予告している(マタイ16:21)。その後イエスはエルサレムを目指すが、その途上で二度目の受難予告がなされる。エルサレムで殺されるかもしれないとイエスは思っておられた。しかし、メシアが受難するわけはないと考えていた弟子たちにとって、イエスの受難は、彼らの理解の限界を越えた事柄であった。
−マタイ17:22−23「一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。『人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして、殺されるが三日後に復活する。』弟子たちは非常に悲しんだ」。
・前回の告知ではペトロがイエスを諌めて叱責されたが、今回イエスから受難告知を受けた弟子たちは、「ただ悲しみに沈むだけであった」とマタイは記す。マタイには三度の受難予告があるが、概ねマルコに従っている。ただ「弟子たちの無理解」についてはマルコの記事を削除している。
‐マルコ9:30「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」。
・マルコ、マタイにある復活予告は後代の挿入であろう。「受難は受難のみでは終わらない」というのが、初代教会の経験した出来事であった。
‐使徒2:23-24「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。

2.神殿税を納める

・マタイではその後に神殿税を納めるべきかどうかの物語が記される。これは他の福音書にはないマタイ独自の記事である。イエスの時代、神殿税はユダヤ人にとって当然の義務であった(出エジプト記30:13「二十歳以上の男子は命の代償として主への献納物として銀半シェケルを支払う」)。神殿税はユダヤ全土だけでなく、外国居住ユダヤ人も、ユダヤ教改宗者も毎年納める義務があった。
−マタイ17:24「一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、『あなたたちの先生は神殿税を納めないのか』と言った」。
・納税額は一人半シェケルで、2ドラクメ(デナリ)に当たり、当時の労働者二日分の賃金に相当した。神殿税の徴収人がペトロに対し「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」という催促に対し、弟子のペトロは「納めます」と即答しているが、ペテロは当然の義務と理解したからであろう。しかしイエスは神殿のありかたに批判的であり、納める必要はないと思っておられた。
−マタイ17:25-26「ペトロは『納めます』と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた『シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか』。ペトロが『ほかの人々からです』と答えると、イエスは言われた『では、子供たちは納めなくてよいわけだ』」。
・しかし、イエスは、「人々をつまずかせないため税を納めよ」と言われる。その納め方はペテロが釣りに行って魚を釣れば、その魚の口から必要なお金が得られるというものだった。ここにある「銀貨」の原語はスターテルであり、4ドラクメの価値がある。つまり、イエスとペテロの二人分の神殿税である。ここで言われているのは奇跡ではない。ペテロは漁師であり、魚を釣り、それを売って、収入を得、そのお金で神殿税を払う。そのことが象徴的に物語されたのがこの話であろう。
−マタイ17:27「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、私とあなたの分として納めなさい」
・マタイ17:24以下の神殿税の話は紀元70年のエルサレム神殿崩壊後の歴史が背景にあると言われている。神殿崩壊後、ユダヤ人たちは、ロ−マ皇帝の命令で、ロ−マの国家神「ユピテル・カピトリヌス」(ジュピタ−)神殿への納税を義務付けられた。異教神殿への神殿税(ユダヤ金庫と呼ばれた)を支払うべきか否かは当時のマタイ教会に取っては大きな試金石であった。そのためマタイはイエスの口を借りてその正当性を教会に訴えたのではないかとされている。
・ユダヤ人キリスト者は新しい神殿税をローマに払ったが、異邦人キリスト者はこれを拒否し、やがてキリスト教がユダヤ教と分離していく契機になった。神殿税を払うべきか否かの議論は基本的にはこの世の権力とどう向き合うのかという問題になる。基本になるのは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたイエスの言葉である。
−マタイ22:17-21「『皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか』。イエスは彼らの悪意に気づいて言われた『偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい』。彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』。
・パウロもこれを受けて、「貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納めなさい」と教える。良き市民であることはキリスト者の基本である。
−ロ−マ13:1−7「人は皆、上に立つ権威に従うべきだす。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたからです・・・すべての人々に自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」。

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