江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年7月2日祈祷会(マタイによる福音書16:1−12、ファリサイ派とサドカイ派のパン種)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.人々はしるしを欲しがる

・マタイ16章はサドカイ派とファリサイ派の者たちが共同してイエスに対して『しるし』を求める場面である。ファリサイ派とサドカイ派は社会階級としても、律法の解釈においても、対立していたが、共通の敵イエスに対峙するために、互いの垣根を越えて一致団結した。彼らは12章でもイエスにしるしを求めたが、この16章においても改めてしるしを求めた。
‐マタイ16:1「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った」。
・イエスはすでに多くの癒しや五千人への給食等を行っているが、ユダヤ教指導者たちはあえてイエスにしるしを求めた。彼らは癒しや給食をしるしとは認めていなかったからである。彼らが求めるしるしとは、「イエスが本当に神から遣わされたメシアであるのか」、あるいは「神の言葉を語る預言者であるのか」、その証拠を見せよということなのである。イエスの時代には、預言者やメシアを自称する者が多く現れていたことも、彼らがイエスに天からのしるしを要求する根拠となったのであろう。しかし、イエスは彼らが求めるしるしを見せることを拒否した。逆にイエスは彼らに問う「夕焼けと朝焼けの天候法則に立った予測が出来るのに、時代のしるしを見分けることは出来ないのか」と。
‐マタイ16:2-3「イエスはお答えになった。『あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか』」。
・前の12章では、しるしを見せよと要求する人々にイエスは、「ヨナのしるし」だけが与えられるとして詳しく答えられている。復活のイエスに対するマタイ教会の信仰告白が反映しているように思える。
‐マタイ12:38-41「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った。イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある』」。
・今回はヨナのしるしもイエスは語らない。イエスが「ヨナのしるし」の説明をやめ、それ以上の議論を避け、ユダヤ教の指導者を残し、その場を去った。それは彼らとの決定的な断絶を意味している。
−マタイ16:4「『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない。』そしてイエスは彼らを残して立ちさられた。」

2.サドカイ派とファリサイ派のパン種

・イエスはユダヤ教指導者たちから離れた後、弟子たちと合流し、ガリラヤ湖の対岸へ渡った。舟の中で弟子たちはパンを持って来るのを忘れたため、どうしようかと話しあっていた。イエスはその弟子たちに、ファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意せよと教え始める。弟子たちは自分たちがパンを持ってくるのを忘れたため、イエスが叱責されていると勘違いした。
‐マタイ16:5-7「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、『ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい』と言われた。弟子たちは、『これは、パンを持って来なかったからだ』と論じ合っていた」。
・イエスは「信仰の薄い者よ」と弟子たちを叱ってから、五千人と四千人への給食を弟子たちに思い出させた。イエスは食べるパンについて言ったのではなく、ファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意せよと弟子たちに教えたのである。パン種とは、イエスに天からのしるしを要求した彼らの誤った考えなのである。
−マタイ16:8−12「イエスはそれに気づいて言われた。『信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持って来ないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか、パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意しなさい。』そのとき、ようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の教えのことだと悟った。」

3.ユダヤ教と一線を画したイエスのしるしと宣教

・イエスは宣教の過程で多くの癒しの奇跡を行っている。またイエスは安息日の律法を破ったり、癒しの奇跡を罪の赦しであると宣言したりしている。これらイエスの業はユダヤ教の指導者たちから、「メシアのしるし」と見なされることはなかった。しかし、バプテスマのヨハネの弟子たちのイエスに対する問い「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たねばなりませんか。」に対して、イエスはそれまでに自らが行った癒しの奇跡と宣教の数々をあげ、これらの癒しの奇跡や福音宣教こそが「メシアのしるし」であると語った。
‐マタイ11:4-6「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』」。
・ユダヤ教の指導者たちが、律法の形式的遵守と清浄規定を信じ、あらゆる外面的汚れから身を守ることに汲々としていた中で、イエスは彼らが避けて返りみなかった病人や罪人に癒しの業で触れあった。それは、イエスが神の無条件な愛を、この世で実現するためのしるしだった。イエスと対立したファリサイ派とサドカイ派らは全くそのことを理解できなかった。彼らは十字架のイエスに「神の子なら十字架から降りてみよ」と挑む。彼らは最後までしるしを求め続けた。
‐マタイ27:39-43「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い』。同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。わたしは神の子だと言っていたのだから』」。
・しるしは信仰者の目には見えても、そうでない人には見えない。復活のイエスとの顕現を証言したのは、信仰者ばかりで、信じない者は復活者に出会っていない。
-?コリント15:3-8「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち・・・聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。

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