1.「十人のおとめ」の喩え
・「十人のおとめ」の喩えは天の国の到来、キリストの再臨を迎えるための信徒の心得を教えている。婚礼ではおとめたちは花嫁の家の前で灯し火を掲げて花婿を迎え、踊りを演じて歓迎する習慣があった。しかし、灯火は15分くらいで消えてしまうため、予備の油が必要となる。愚かなおとめたちはその灯油の準備を怠っていた。
−マタイ25:1−4「『そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれ灯し火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、灯し火は持っていたが、油の用意はしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれの灯し火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。』」
・花婿の到着が遅れたのは、キリスト再臨の遅れを表している。マタイ時代の教会は再臨待望の熱意と、それがなかなか来ない焦燥感の中にあった。再臨を待望する者にとって、信仰の火を消すことなく、灯し続けることは重要であった。おとめたちが眠りこんだ真夜中、突然、花婿の到着が告げられ、灯油の用意をしていなかった愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに灯油の借用を申し込むが、断られる。
−マタイ25:5−9「『ところが花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠りこんでしまった。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれの灯し火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。私たちの灯し火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」』」
・「その時を外したら機会は二度と来ない」、再臨の日の予告はないから、徴を見逃さないため目を覚ましていなければならない。愚かなおとめたちは灯油を買いに行ったばかりに、宴会に遅れ、会場の扉は閉じられ、主人は「私はお前たちを知らない」と冷たい答えをする。
−マタイ25:10−13「『愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、「ご主人様、ご主人様、開けてください。」と言った。しかし、主人は、「はっきり言っておく、私はお前たちを知らない。」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。』」
・初代教会は、キリスト再臨への強い信仰を持っていた。彼らにとってイエスの復活体験は強烈であり、終末は既に始まり、再臨は近いとの熱意を持ち続けた。彼らの信仰共同体では「主よ、来りませ(マラナタ)」の祈りが一貫して祈られていた。それはまた彼らが迫害を耐えるための支えでもあった。「キリストの再臨を待ち望み、聖なる生活を続けなさい」とペトロの手紙は励ましている。
−?ペトロ4:13−15「だからいつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」
・しかし終末は来なかった。そのため現代人は終末や再臨の期待をなくしてしまった。2013年度教員採用適性検査の一項目に「キリストの再臨を信じるか」があったという(2014.11.16毎日新聞)。信じれば「カルト思想の持ち主」と分類されるのだろうか。そういう時代の中に私たちはいる。
−?ペトロ3:8−9「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせているのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
2.タラントンの喩え
・この喩えは、人は与えられた才能(タレント)を生かさなければならないことを教える。人の様々な才能は神から託されている賜物(カリスマ)であることを、まず自覚しなければならない。喩えのタラントンは貨幣の単位で、1タラントンは6,000デナリ、銀40キロに相当する。1デナリは当時の日給だったので、1タラントンは約16年分の賃金となる。最初の僕に託された5タラントは、80年分の賃金という膨大な金額である。
−マタイ25:14−18「『天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、一人には一タラントン預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして五タラントンをもうけた。同じように二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。』」
・主人が僕に託したタラントンは三人とも同額ではない。しかし、5タラントン預かった僕も2タラントン預かった僕も、平等に忠実な僕と評価されているから、僕の忠実度は預かった額や儲けの額ではではなく、それぞれの努力に対する評価である。このタラントンから「タレント(才能)」という言葉が生まれた。
−マタイ25:19−23「『さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。「ご主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」次に二タラントン預かった者も進み出て言った。「ご主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」』」
・主人がタラントンを生かすように預けたのであれば、預かった1タラントンを地中に埋めてしまった僕は怠け者ということになる。「主人が厳しいからタラントンを減らさぬよう地中に隠しておいた」という僕の言訳に対して、主人は「私を厳しい主人だと思うなら、銀行にタラントンを預けるべきだった」と、同じ論理で反論している。
−マタイ25:24−28「『ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」主人は答えた。「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息つきで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。」』」
・喩えの主人は神、僕は人、タラントンは神から預けられた才能である。才能は用いれば用いるほど豊かになる。1タラントンを用いなかった僕は、豊かどころか全てを失ってしまった。この喩えは「他の人は5タラントンや3タラントンなのに、自分は1タラントンだ」として、人並みの恵みを受けなかったと不満を持つ人の投げやりな生き方を戒めている。彼は1タラントンがどれだけ大きい恵みかを忘れていた。
−マタイ25:29−30「『だれでも持っている人は更に与えられ豊かになるが、持っていない人は持っているものも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
・「だれでも持っている人は更に与えられ豊かになるが、持っていない人は持っているものも取り上げられる」はイエスの言葉ではなく、マタイの付加とされる。社会学では「経済格差の拡大」等が「マタイ効果」と呼ばれる。タラントンの強調も弊害を持つ。聖書をどう読むかは力量と共に信仰が必要である。
-社会学者ロバート・マートンは条件に恵まれた研究者は優れた業績を挙げることでさらに条件に恵まれる「利益—優位性の累積」メカニズムを指摘した。彼はマタイ福音書「持っている人は与えられていよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という言葉から、このメカニズムを「マタイ効果」と命名した。ノーベル賞受賞者は学界で有利な地位が与えられるために、科学資源の配分、共同研究、後継者の養成においてますます大きな役割を果たすが、無名の新人科学者の論文は学術誌に受理されにくく、業績を発表することについて不利な位置におかれる等、科学の発展を阻害するマイナスの側面を持っている。