江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年10月1日祈祷会(マタイによる福音書21:33−46、ぶどう園と農夫の喩え)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.農夫たちの反抗

・イエスは「ぶどう園と農夫の喩え」を語った。旧約聖書において、イスラエルはしばしば、ぶどう園に喩えられた。
−イザヤ5:7「イスラエルの家は万軍の主のぶどう園、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」。
・ぶどう園はいばらの垣根を巡らし、いのししや泥棒を防いだ。ぶどうを絞る酒舟は上下二段に造られ、高い方の酒舟で絞られたぶどうが液となり、低い方の酒舟に流れ落ちた。やぐらはぶどうが熟した頃、襲ってくる泥棒を見張るため建てられ、やぐらの下が農夫の宿舎だった。「ぶどう園と農夫の喩え」に登場する、家の主人は「神」、ぶどう園は「イスラエル」、農夫たちは「イスラエルの宗教指導者たち」、僕たちは「預言者たち」、主人の息子は「イエス」であり、喩えは神が幾度も試みたイスラエル救済の歴史が背景になっていた。
−マタイ21:33−36「『もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、この農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。』」
・ぶどう園に喩えられたイスラエルの管理を、家の主人である神が、宗教指導者を含むイスラエルの人々たちに任せた。神は彼らを信頼したからこそ任せた。任せられた彼らは当然神の信頼に応え、忠実に責任を果たすべきだったのに信頼を裏切った。ぶどう園の主人である神が度々送った僕たちである預言者たちを殺し、神の信頼をないがしろにしてしまったのである。イエスはイスラエルの宗教指導者たちの犯してきた背信の罪を「ぶどう園と農夫の喩え」で指摘したのである。

2.跡取り息子も殺される

・ぶどう園の主人は、多くの僕を殺された後、最後の手段として、自分の息子なら農夫たちも敬ってくれるだろうと考え、跡取り息子を送るが、農夫たちは息子も殺してしまう。彼らはぶどう園の主人の息子を殺したうえに、ぶどう園まで奪い取ろうとする。農夫らの跡取り息子の殺害は、イエスが殺害されることを暗示しているのである。
−マタイ21:37−39「そこで最後に『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちはその息子を見て話し合った『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう』。そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」。
・イエスはこの事件の結末を、その場で喩えを聞いていた聴衆に語らせている。彼らは、ぶどう園の主人は、その悪党どもを死刑にして、ぶどう園は他の農夫に貸すだろうと語った。
-マタイ21:40-41「『さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか』。彼らは言った『その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫に貸すにちがいない』」。

3.隅の親石の喩え

・その後、イエスは隅の親石の喩えを語られた。
−マタイ21:42−44「イエスはこう言われた『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える」。だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう』」。
・この喩えは旧約聖書詩編118:22−23「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、私の目には驚くべきこと」からの引用である。この詩篇は、元来は、バビロン捕囚を踏まえた詩だ。神は罪を犯したイスラエルを罰するために、バビロニア帝国を用いて国を滅ぼされ、指導者たちをバビロンに捕囚として送られた。イスラエルは捨てられた。捕囚民はバビロンの地で悔い改め、涙を流した。時が来て、神は、バビロンに囚われた人々を解放してイスラエルに戻し、新しい国の再建を任せられた。捨てられたかに見えた石を用いて、神はイスラエルを立て直されたと人々は神を賛美したという詩である。
・マルコ(そしてマタイ)がこの詩篇を引用した意図は明確だ。人々はイエスを役に立たない石として捨てるが、そのイエスを神は死から復活させられ、復活を通して、人々はイエスが神の子であることを知り、自分たちが神の子を殺したことに気づき、悔改める。その時、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となる」。それは祝福の言葉であり、呪いの言葉ではない。

4.物語の背景にあるもの

・祭司長たちやファリサイ人たちは、この物語が自分たちに対する批判であることを知り、歯ぎしりする。しかし、民衆の手前、今すぐイエスを捕らえることは出来なかった。
−マタイ21:45−46「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」
・このマタイ21章の物語は、原典のマルコ福音書では12章にある。イエスが人々に言われたとされる言葉「ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻ってきて、この農夫たちを殺し、ブドウ園を他の人たちに与えるに違いない」(12:9、マタイ21:40-41)は、イエスの言葉ではないと思われる。「十字架上で自分を殺す者たちのために祈られたイエスが、相手を裁き、その死を望まれる」とは思えないからだ。聖書学者の多くは、マルコ12:9節後半以降(マタイ21:40以下)は初代教会が自分たちの信仰の立場から書き加えたものであろうと考えている。「農夫たちは殺され、ぶどう園は他の者に与えられる」とは、イエスの死から40年後に起こった対ローマ武装闘争でユダヤ側が敗北し、エルサレムが滅ぼされたことを暗示している。それは、神のひとり子であるイエスを殺したことの報いであると教会は反論しているのである。
・しかし付加により、イエスが語られた事柄の真意が歪められてくる。イエスは祭司たちに悔い改めを求められたが、その裁きは父なる神に委ねられた。しかし、弟子たちはイエスを殺したユダヤ人を裁き始めている。マタイはさらにマルコにはない21節以下を挿入し、そのトーンを強めている。
-マタイ21:43-44「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。
・この教会によるイエスの言葉の書き換えが後のユダヤ人迫害(キリストを殺した民としてのユダヤ人)、そしてナチスのユダヤ人大量虐殺に繋がっていく。イエスは福音を語られたのに、人がそれを裁きの言葉に変えた。私たちは聖書が福音である(良い知らせ)であることを、聖書の釈義を通して明らかにしていく責任があるのではないか。

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