江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年4月23日祈祷会(マタイによる福音書11:1−19、ヨハネとイエス)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.洗礼者ヨハネとイエス

・イエスの周囲の状況は、時間の経過とともに、変化していた。イエスが宣教を開始した頃は、民が群れをなしてイエスの周囲に集まり、イエスの話を聞き、目の前で行われるイエスの奇跡に感動した。しかし、奇跡も癒しも見慣れるに従い、感動が薄れ、民衆の期待したメシア像と、イエスの実像との間にずれが生じていた。そのずれを洗礼者ヨハネも感じていた。彼はイエスに先立ち、イエスの前に道を開く使命を帯びて、世に遣わされた者であったが、そのヨハネがイエスにつまずいていた。
・イエスが宣教に出発する弟子を送り出していたころ、ヨハネはヘロデ・アンテパスに捕えられ牢に繋がれていた。ヨハネは直情径行を旨とし、相手が誰であろうと、歯に衣着せず真っ向から批判した。彼はヘロデがガリラヤの領主であっても容赦はなかった。ヘロデは非難されてもしかたがない、破廉恥な行いをしていた。彼はロ−マを訪問中に、弟の妻と不倫関係に陥り、自分の妻を追い出し、義妹をその夫から奪い自分の妻としていた。ヨハネはヘロデの恥知らずな行いを公衆の面前であからさまに非難した。堪りかねたヘロデは、ヨハネを投獄し民衆から隔離した。
・獄中のヨハネは、イエスの噂を聞き、自分の弟子を、イエスの元へ遣わし「あなたが来るべきメシアですか」と尋ねさせた。ヨハネにとって最大の関心事は、自分が洗礼を授け、民衆に紹介したイエスのその後であった。そのころになると彼が心に描いていたメシア像と、イエスの実像の間にずれが生じていた。ヨハネはイエスにつまずいたのである。イエスは「私が行っている福音の業の数々を、ヨハネに伝えなさい。そうすれば分かるであろう」とヨハネの弟子に伝えた。
−マタイ11:1−6「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』イエスはお答えになった。『行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ。死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである』」。

2.ヨハネについての証し

・ヨハネの弟子たちが立ち去ると、イエスはヨハネについて人々の前で語り始めた。ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授け、イエスにも授けた。彼はイエスの前に道を開いた先駆者であった。イエスは人々に洗礼者ヨハネを思い出させるために、「あなたがたは、何を見に行ったのか」と譬えを語り始めた。「風にそよぐ葦」とは、風になびいて揺れる葦のように、一貫性がなく、世評に振り回される人のことである。常に先輩のラビの意見に惑わされ、イエスの教えを理解できない一般のラビもそうであるが、さらに加えて、ヨハネを捕えたヘロデ・アンテパスもまたイエスによれば風にそよぐ葦なのである。
−マタイ11:7−11a「ヨハネの弟子達が帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。『あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を来た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく、預言者以上の者である。“見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう”と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。』」
・イエスは譬えで人々に、洗礼者ヨハネのことを語っている。柔らかい着物とは繊細できらびやかな贅を尽した着物のことであり、宮殿に住む王侯、貴族たちである、そんな衣を着た人を見るために、あなたたちは荒れ野に行ったのではないのであろう。あなたが荒野に見に行ったのは、租末な毛衣をまとい、臆せず権力者を批判する孤独の戦いを続けたヨハネに会うためではなかったのか。あなたたちはヨハネの教えを聞き、ヨハネから洗礼を受けるため、荒野へ行ったにではないのか、イエスは人々の心変わりを戒めたのである。その上で、「女から生まれた者で彼以上の者はいない」と、ヨハネを賞賛したのである。

3.イエスに躓くヨハネ

・イエスはヨハネを誉めた上で、しかし「天の国で一番小さい者でもヨハネよりは偉大だ」と言い添えた。
−マタイ11b「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。
・12節(「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうしている」)は新約聖書中で解釈が難解と言われている。難解といわれる理由は、解釈が様々に別れ一つに絞れないからである。一つはイエスの到来によって始まった神の国運動が、ヘロデによるヨハネの逮捕や、民衆のイエスからの背離で攻撃を受けているとみる解釈である。もう一つはファリサイ派などが、断食し、熱心に祈ることで、世を裁く終わりの日を早めるよう強制している、これらが天国への攻撃だという解釈である。イエスは時代の転換点をヨハネの時までとしている。ヨハネの時までが預言者と律法の時代で、旧約聖書の時代はそこで終わり、新約の時代はイエスによってまさに始ろうとしているのである。そしてイエスはヨハネこそマラキが預言した現れるべきエリヤであると証言しているのである。
―マタイ11:12−14「彼が活動し始めた時から今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」。
・イエスは、イエスにつまずいた人々として、当時の民衆をあげている。イエスの時代の人々は、イエスに対しても、ヨハネに対しても、その教えを聞こうとしないだけではなく、ヨハネについては「食べも呑みもしないでいると『あれは悪霊に取りつかれている』」と言い、イエスが来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』」(11:18−19)とあげつらう。それはまるで子どのようだ。嫁入りごっこで笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式ごっこにしたが、悲しんでくれなかった。いずれも、この時代の人々がイエスやヨハネの言うことに耳を貸さなかった様子を表している。民衆は気まぐれなのである。かつては我先にヨルダン川のヨハネのもとに駈けつけ、ヨハネの教えを聞き洗礼を受けた人々が、今はイエスの教えにも、ヨハネの教えにも、真剣に聴こうとしなくなった。
−マタイ11:15-19「耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』だと言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
・イエスは、人の心のひずみに心を痛めた。人々がまるで駄々をこねる子供たちのようにみえたからである。真理に耳を傾けまいまいとすれば、いくらでも理由をつけることはできる。しかし、その理由に一貫性はみつけられない。人は心を閉ざそうとすれば、どんなに誘われ、勧められても、頑強に無愛想に拒み続ける。まるで駄々をこねる子供のように。イエスは、信仰の入口を狭い門に譬えた。人々は狭い門から入らなかったからである。
−マタイ7:13−14「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者は多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

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