江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年12月10日祈祷会(マタイ福音書26:31−56、ゲッセマネの祈り)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.ペトロたちの離反を予告する

・イエスは、ゲッセマネに向かう道中で、弟子たちの離反を予告する「今夜、羊飼いは捕えられ、羊であるあなたがたはつまずき、私から離れ、散らされるであろう」(ゼカリヤ13:7)と。しかしイエスはガリラヤでの再会を約束されたとマタイは伝える。ガリラヤでの復活顕現を体験した初代教会の信仰がここに表明されている。
−マタイ26:31−32「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆私につまずく。「私は羊飼いを打つ。すると羊の群れは散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』」
・ペトロは、他の弟子と同様に見られていることに不満を感じた。彼は「何が起ころうと自分はつまずくことはない」と言い張る。自分だけは違うと言い張るペトロに、イエスは「あなたは、今夜鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うであろう」と言う。なおも言い張るペトロは、自分の弱さに気付いていない。他の弟子たちもペトロに追従して離反を否定した。
−マタイ26:33−35「するとペトロが『たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう』。ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません。』と言った。弟子たちも皆同じように言った。」

2.ゲッセマネで祈る

・一行はゲッセマネに着いた。イエスは弟子たちから離れて祈られる。イエスの心は悲しみに溢れ、弟子たちの前で悶え苦しみ始めた。イエスは弟子たちに、この場に留まり、目を覚まして、祈りの支援をするよう命じた。
−マタイ26:36−38「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『私が向うへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。』」
・イエスは地に伏し、全身全霊で、「この杯を取り除いてください」と祈った。この杯とは十字架の死である。しかし、返事はない。イエスは「十字架の死が父なる神の御意であるならば、すべてを委ね従います」と祈った。信従の祈りである。イエスは祈りを中断して、弟子たちの所に戻ると、彼らは眠り込んでいた。この数日の出来事で、彼らは疲れ果てていた。イエスは彼らの弱さを目の当たりにして、「誘惑に陥らぬよう目を覚まして祈る」ように命じた。
−マタイ26:39−41「少し進んで行って、うつぶせになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯を私から、過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりだはなく、御心のままに。』それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、私と一緒に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』」
・イエスは園の奥へ再び戻り、二度目の祈りを始めた。祈りの後、イエスが弟子たちのところへ戻ると、彼らはまだ眠っていた。イエスは彼らから離れ、三度目の祈りに入った。イエスは最初の苦悩の祈りから完全に立ち直り、眠っている弟子たちに語った「さあ起きよ。立て、目を覚ませ。見よ。私を罪人に引き渡す者が、園の入り口まで来ている」。
−マタイ26:42−46「更に、二度目に向うに行って祈られた。『父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また、向うへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。』」

3.逮捕される

・祭司長たちの率いる集団が、イエスを捕えるため園の入り口まで迫っていた。彼らは武器を持ち、大勢で来た。案内役になったユダは手順通り、イエスに接吻しようとした。その時、イエスはユダに「友よ」と呼びかけた。イエスにはユダに対する憎しみはなかった。ペトロが剣で大祭司の手下に斬りかかり、片耳を斬り落とした時、イエスはペトロを制し諌めた「剣を取る者は剣で滅びる」。
−マタイ26:47−52「イエスが話しておられると、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長や民の長老の遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、『私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた。すぐイエスに近寄り、『先生、こんばんは』と言って接吻した。イエスは、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕えた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は剣で滅びる。』」
・「剣を取る者は剣で滅びる」、争う者は争いで滅びる。世界が軍事力の均衡で平和が保たれているのだとしたら、それは真の平和ではない。軍事力の均衡で保つ平和は、均衡が崩れれば崩れる。初代教会はイエスが逃れようと思えば出来たのに、あえて逃れようとはされなかったと考えた。
−マタイ26:53−56「『私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。』またそのとき、群衆に言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒をもって捕えに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちは私を捕えなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。』このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」
・イエスの弟子たちは、あまりにも無抵抗なイエスを見捨てて逃げてしまった。それは昔の預言者イザヤが記したように、であるとマタイは記す。
−イザヤ53:6−7「私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられてかがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」

4.私たちはこの箇所をどう読むか

・初代教会はイエスのゲッセマネの祈りを大事に記憶した。イエスはゲッセマネで、「私は死ぬばかりに悲しい」と告白された。多くの英雄や殉教者は、相手を呪いながら、あるいは神を讃美しながら、雄々しく死んでいく中で、「イエスはもだえ苦しまれた」と教会は告白する。「もだえ苦しまれたからこそ私たちの救い主だ」と。また「一緒に死にます」と表明した弟子たちも、イエスの必死の祈りの時に眠り込み、「おまえたちもイエスの仲間だろう」と問い詰められた時には、「そんな人は知らない」と否認して行く。
−ヘブル5:7「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。
・ここに弱さを隠さない信仰がある。人が弱さの中で、自分の力、信仰、確信をすべて放棄し、神を呼び求める時にこそ、神の力が働き始めるとの信仰である。
-2コリント12:9-10「すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。

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