1.イエスの再度の受難予告と無理解な弟子たち
・ピリポ・カイザリアからイエスはエルサレムに向かわれる。エルサレムでは受難が待ち受けている。イエスは弟子たちに二度目の受難予告をされた。ここでマルコは「引き渡される」と言う言葉を用いる。「イエスは神によって引き渡される」。聖書学ではこれを「神的受動体」と呼ぶ。神がイエスを受難に導かれることを示すための受動態だ。
-マルコ9:30-31「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである」。
・前回(8:31〜38)と異なり、今回、弟子たちは反応しない。聞いていなかったからだ。弟子たちはイエスがエルサレムで王になられると思い込んでおり、関心はその時に誰が一番偉い地位につくかだった。
-マルコ9:32-34「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」。
・イエスは嘆息して言われる「神の国では仕える者こそ偉いのだ。まだわからないのか」と。
-マルコ9:35-37「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』。そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである』。」。
・マルコは弟子たちの無理解を隠さない。しかしマタイはこの箇所を「天国では誰が一番偉いのか」という話に変えて弟子たちの名誉を守る。教会がマタイ福音書を第一福音書とした理由もそこにあるのだろう。
-マタイ18:1-3「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』」。
2.マルコの教会への叱責
・ヨハネは名誉挽回にために、「イエス派」に同調しない者を除名したと告げてイエスから怒られる。マルコの教会の閉鎖性をマルコはイエスの言葉を借りて批判している。マタイはこの箇所を自分の福音書から削除する。
-マルコ9:38-40「ヨハネがイエスに言った『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました』。イエスは言われた『やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである』。
・教会が内側に閉じた時、教会はカルト的になる。自分たちと異なる者は敵になるからだ。9:41の言葉はイエスの言葉ではないだろう。イエスは自らを「キリスト」とは言われなかった。「巡回伝道者を大事にしなさい」とマルコは教会に勧告している。信仰や立場の異なる者を受け入れない風潮が初代教会においてもあったのだろう。
-マルコ9:41「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」
・9:42-48には「つまずかせる」という共通語によって四つの勧告が語られる。初代教会にも、信仰的に、社会的に弱い者をつまずかせる者たちがいた。ローマ14:1-12、ヤコブ2:1-4、ガラテヤ2:11-14等を読むと、初代教会の中に律法主義や民族主義が色濃くあったことがわかる。教会はあくまでも天上ではなく地上の存在だ。
-マルコ9:42-47「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい・・・もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」。
・マルコ9:49はマタイ5:13「地の塩」の原型である。「火で塩味をつけられる」、イエスが十字架で死なれたように、イエスに従うものも殉教を覚悟せよとマルコは語る。マタイの穏やかな勧告とは異なり、厳しい言葉だ。
-マルコ9:49-50「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。
・最初の受難告知(8章)ではペテロが叱られた。今回の受難告知ではヨハネが叱られ、三度目の受難告知ではヤコブとヨハネが叱られる(10:35-38)。マルコは弟子たちの無理解を繰り返す。人は復活のイエスに出会わない限り、イエスの弟子になることは出来ない。水のバプテスマに続く「霊のバプテスマ」が不可欠なのではないだろうか。
-マルコ1:8「私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。