1.イエスの埋葬
・イエスは金曜日の午後3時に息を引き取られ、あわただしく十字架から取り降ろされ、埋葬された。安息日は金曜日日没から始まり、安息日に遺体を十字架にかけたままでいることは律法が禁止しているからだ(申命記21:23)。
-マルコ15:42-43「既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである」。
・イエスを埋葬したのは、最高法院議員であったアリマタヤのヨセフだった。彼は自分の評判を危うくする危険を犯して出来ることをした。イエスは支配層の中に少なくとも一人の弟子を得ていた(この人も神の国を待ち望んでいた)。
-ヨハネ1:10-12「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。
・洗礼者ヨハネが処刑された時、弟子たちは遺体を引き取りに来た(6:29)。イエスの弟子たちはその義務さえ果たさなかった。ヨセフは遺体を亜麻布に巻き、自分の墓に納めた。死んだ人を丁重に葬る。教会の大事な仕事の一つだ。
-マルコ15:46「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた」。
・イエスは確かに死んだ。ピラトは部下を通じてそれを確認する。「死んで葬られ」という使徒信条が想起される。
-マルコ15:44-45「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した」。
・イエスは確かに墓に納められた。イエスに従ってきた婦人たちはそれを確認する。
-マルコ15:47「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」。
2.イエスの復活
・週の初めの日、婦人たちは遺体に香油を塗るために墓に急ぐ。彼女たちは墓の入り口に置かれた石をどのように取り除くべきか知らない。知らないながらも急ぐ。「必要な助けは神が与えて下さる」、信仰の行為だ。
-マルコ16:1-3「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」。
・墓に急いだ婦人たちはイエスの死に立ち会った婦人たちだった。同じ女性たちがイエスの死と復活の証人になる。
-マルコ15:40「婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」。
・彼女たちはできることをした。弟子たちはイエスが奉仕について語られるのを聞いた。しかし仕えたのは婦人たちであった。奉仕=ディアコニアとは、ディア=を通って、コニア=泥、自ら泥をかぶっていく行為だ。
-マルコ10:43-44「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。
・墓に着くと石は転がされていた。「転がされて」、神が行為された。
-マルコ16:4「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである」。
・墓の中には天使がいて、「イエスは復活された。ここにはおられない」と述べる。婦人たちは驚いた。
-マルコ16:5-6「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である』」。
・天使は婦人たちに「ガリラヤに行くように弟子たちに伝えなさい」と命じる。生前にイエスは命じられた「羊飼いが打たれて羊は散らされても、その羊たちはまた集められる」(14:28)と。この約束が果たされる。
-マルコ16:7「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
・「婦人たちは恐れた」、マルコ福音書はそこで突然に終わる。唐突な終わり方だ。
-マルコ16:8「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。
・後代の教会は復活後の出来事を書き込む。それが16:9以下の付加だ。しかしマルコは付加を必要としない。復活後にどう行動すべきか。それは私たちに委ねられている。マルコの未完の物語を継承するのは私たちだからだ。