1.結婚と離婚についてのイエスの教え
・イエスはガリラヤを離れてエルサレムに向かわれる。そこにパリサイ人が近づき、離婚について尋ねる「離婚は律法で許されていますか」。彼は答えを知っているのにあえて尋ねる。イエスを罠に落としいれるためだ。
-マルコ10:1-2「ファリサイ派の人々が近寄って『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた。イエスを試そうとしたのである」。
・律法は離婚を認めている。イエスはそれを承知の上で、「律法には何と書いてあるか」と尋ね返される。イエスはパリサイ人の偽善を明らかにしながら、結婚の本質に迫って答えられる。
-マルコ10:5-9「イエスは言われた『あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。・・・神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』」。
・「神は人を男と女に造られ」、「二人は一体となって」、新しい生命を生み出す。結婚は神の創造の秩序による。しかし人は己の欲望によってその秩序を破壊してしまう。それゆえに神は「結婚が破綻する」場合に、弱いものが守られるようにモーセに指示された。離縁状は妻に再婚の自由を認める制度であり、夫の勝手を許すものではない。
-申命記24:1「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」
・人は律法を守るだけでは十分ではない。まず結婚の意味を考え、出来るだけ誠実にお互いと向き合うことが必要だ。その結果、結婚を解消することが神の御心ならばそうすればよい。イエスにとって重要なのは結婚や離婚の規定ではない。人がそれぞれにかけがえの無い存在として生き、生かされることなのだ。
-マルコ10:10-12「弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた『妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる』」。
・マタイはイエスの真意が理解できず、表面的な言葉の厳しさを緩和するために「不品行の故に」を追加している。
-マタイ19:9「不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」(口語訳)。
2.財産と所有についてのイエスの教え
・人々が子どもたちをイエスの所に連れてきたところ、弟子たちがこれを妨げた。イエスは弟子たちを叱られ、子どもたちこそ神の国にふさわしいと言われた。子どもたちがふさわしいのは、彼らが何も出来ず、親の保護なしには生きていけないからだ。神の国は恵みであり受けるだけなのだ。しかし人々はそれを奪い取ろうとして失敗する。
-マルコ10:15-16「『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。
・次の「金持ちの男」の話も共通する。彼は神の国=永遠の命を自分で得ようとするが手には入らない。彼は戒めをことごとく守ってきたが平安がない。何かまだ足らないと思ってイエスのところに来た。イエスは彼に「持っているものを捨てて従いなさい」と言われたが、男は去る。多くを持っていたからだ。
-マルコ10:19-22「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。すると彼は『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい』。その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。
・財産を持つことが悪いわけではない。財産に心を奪われることが悪いのだ。この男は「捨てることは自分には出来ない」として去った。しかし「神には出来る」という信仰があれば、財産を持ちながらイエスの弟子になれた。
-マルコ10:23-27「イエスは弟子たちを見回して言われた「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。・・・金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。弟子たちはますます驚いて『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』」。
・捨てることが勧奨されているのではない。イエスは全てを捨てたペテロを賞賛されない。初代教会の原始共産制が崩壊したのも生産活動をしなかったからだ。イエスの神の国運動も支える裕福な人たちがいて可能になった。与えられたものを恵みとして用いることが出来るかどうかが問われているのだ。
-マルコ10:29-30「私のためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。